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| 2006年12月号「月刊ランティエ。」掲載分 ※下に批評を掲載しています。 |
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| 鮎落ちて水の色づき始めたる 松下千代
同時作に、
オルゴオル時計の止まる獺祭忌
鍵盤の勝手に動く秋の夜
「鮎落ちて」と「獺祭忌」は、八月の「しゃん句会」での特選句。兼題は「錆鮎」。成熟して産卵場へと川を下るのが落鮎(下り鮎)である。産卵期の鮎は、黒ずみ、腹は赤くなるので、錆鮎とも呼ばれる。例句としては、
山々は鮎を落して色づきぬ 森 澄雄
鮎落ちてこれよりながき峡の冬 宮下翠舟
森澄雄作品は、錆鮎のころの山々が紅葉した景を詠った。一方、千代の作品は、水が青々と澄み、紅葉を映す景を詠った。色づく山を詠うのではなく、落鮎の川そのものに詩を見い出そうとした。中七・下五の「水の色づき始めたる」の措辞が美しい。印象鮮明な一行詩。 |
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| 青北風や恐るるものは死にあらず 北村峰子
「青北風」とは、雁が渡ってくる九月、十月ごろに吹く北風のこと。「雁渡し」とも言う。例句としては、 雁渡し豆腐一丁置ひて足る 稲垣きくの
峰子の同時作に、
秋天に手かざせばやはらかき明日
どこに身を置けばいいやら青なつめ
振り向くと前を向けなくなる案山子
銀河まで駆けやうメリーゴーランド
『河』八月号の、 柿落花きのふに肩を叩かれる 青嵐索引はみな過去のこと
八月号はどの句も、荒涼とした作者の心象風景だった。しかし、今月号の作品は、癌の進行している作者の、ある種の突き抜けた明るさに救われた。先師・源義は、句集「冬の虹」のあとがきで、 「私はこれまでの境涯俳句とよばれるやうな俳句を作らなかったが、日々の生活を詠ふやうになった。しかし、私は芭蕉晩年の計が何であったかが思へてならず、陰を陽に転ずる俳諧の全てをつづけてみたい。そのあとはどうなるのか、実は私にも判らない。軽みの句風で芭蕉は終焉を迎へてゐる。俳人芭蕉にとって、これは幸ひしてゐた」
「陰を陽に転ずる俳諧」。これが源義の目的地だった。峰子の「秋天」の句も、「銀河」も、そして「青北風」も、陰を陽に転ずる俳諧と言うこともできる。しかし、私はそう思わない。気を振い立たせようとする峰子の、ぎりぎりの生命賛歌の一行詩と、私は解したい。永遠の中の今を詠う峰子の現在地として捉えたい。 |
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| 蛇穴に入りて惑星ひとつ消ゆ 滝平いわみ
同時作に、 夏果つる地獄めぐりに行きしまま
スマップの歌などおぼえ豊の秋
「スマップの歌などおぼえ」の句には、一読して笑ってしまった。スマップの歌をうたっている滝平いわみの姿が、突然、イメージされてしまったからだ。
一方、「惑星ひとつ消ゆ」は、今年の八月中旬、世界七五ヶ国から約二五〇〇人の天文学者が参加した国際天文学連合の総会で、冥王星は太陽系に属する惑星ではないと多数決で認定されたことを受けての一句。今月の『河』の投句でも、このニュースを一句に仕立てた作品が数多くみられた。
「蛇穴に入る」とは、蛇が寒くなって穴に入り冬眠することをいう。また、仲秋を過ぎても穴に入らないものを「穴惑い」という。例句としては、
穴に入る蛇あかあかとかがやけり 沢木欣一
はにかみのちらとわれ見て穴まどひ 森 澄雄
滝平いわみの句を眺めていたら、高浜虚子の次の句を思いだした。
蛇穴を出て見れば周の天下なり
滝平作品は、虚子のユーモアに通底している。そして、冥王星のニュースを離れて鑑賞した方が遥かに面白く、上等な作品となる。例えば、試みに私は次の一句を作ってみた。
穴惑ひ帝国ひとつ砂に消ゆ
東アジアの砂漠に古来、多くの帝国や王国が建設され、滅んでいった。モンゴル帝国もその一つである。「惑星ひとつ消ゆ」は、一つの惑星が消滅すると捉えた方が遥かに面白いからである。 |
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| 穴惑遠くまぶしい水がある 野田久美子
同時作に、
ふりむいてほしいこんなにまんじゆさげ
鶏頭の野に放たれし男神かな
があり、両句とも面白い。「穴惑」の句は、十三年前に麻薬取締法違反で逮捕され、千葉の拘置所で大晦日を迎えた時の、次の一句を思い出させた。
大年の遠き水辺のひかりかな
私にとって、大年の水辺のひかりは永遠の距離であった。例えば、次の代表句はそれである。
そこにあるすすきが遠し檻の中
野田久美子の作品「穴惑」は、作者自身である。「遠くまぶしい水」は、作者の過去ともとれるし、未来に対する願望とも考えられる。「まぶしい水」は、永遠に手に入れることのできない逃げ水であり、しかも目に見えるが故に、冬眠を拒み、この世に執着する蛇は、さまざまな「惑い」を抱えている。「穴惑」の一句は、象徴詩として秀吟。 |
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| 乙女らの薔薇の刺青を晩夏とも 渡辺二三雄
同時作に、
西日中花街といふ行き止まり
文机に青きあけびと筆二本
があるが、「薔薇の刺青」の句は鮮烈だ。「刺青」は「タトゥー」と読ませるのだろう。多分、乙女らとある以上、複数であれば、現実の刺青ではなく、貼りタトゥーと考えられる。『河』九月号の稲野博明の次の句が参考になろう。
半夏生少女の腕の貼り刺青 春樹
稲野博明の作品は半夏生の本来的な意義が失われた世相を詠んだ風刺の一行詩であったが、二三雄作品は少女たちの薔薇の貼りタトゥーに晩夏の色を感得したのだ。その感性は病的なほど繊細であり、年季の入った一行詩。 |
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| 招かれし敬老の日のおなじ顔 内田日出子
同時作に、
藍浴衣娘が定年となりにけり
聞いてやる孫のあらそひ鳳仙花
虫のこゑ容れて明け待つ余生かな
があるので「敬老の日」の句の背景は想像できる。しかし、下五の「おなじ顔」という措辞には、ユーモアとペーソスを充分に表現できる力量に感じ入った。 |
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| 老ひきつてぱくぱく芋の煮ころがし 原与志樹
同時作に、
干瓢の干からびてゆく余生かな
山影の山へ引きゆく盆の市
があり、特に「盆の市」の句に感銘した。しかし、なんといっても「芋の煮ころがし」の句が面白い。「芋の煮ころがし」の上五・中七の「老ひきつてぱくぱく」は、とても言えるものではない。正しく作者の年季がものを言った放下の一行詩。 |
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| ワルツからタンゴに変わり月涼し 福原悠貴
同時作に、
十六夜やぽつりと赤い橋がある
があり、「月涼し」は八月の「しゃん句会」の特選句。「十六夜」は、八月の「はいとり紙句会」での秀逸句。「月涼し」の句は、直ちに三橋鷹女の次の代表句を思い浮かべた。
暖炉灼く夫よタンゴを踊らうか
昔は日本でも一流ホテルには必ず舞踏室があった。今年の春、社員同士の結婚式が横浜のグランド・ホテルで行われた。披露宴は天井の高い、気品のある一室で開かれた。部屋の入口には英語で、「ボード・ルーム」と書かれていて、その日の招待客は豪華な内装に感嘆したものだ。古き良き時代の遺産である。目をつぶると、ボード・ルームの生バンドが華麗なワルツを流している。が、突然、曲は激しいタンゴに変わり、暗転してフェイド・アウトになる。
アルゼンチン・タンゴには何故か革命と叛逆者の血の匂いがある。名門ホテルの舞踏室に座っていると、そんなヴィジョンが浮かんでくる。福原悠貴の「月涼し」の一句は、さまざまなイメージを抱くことができるドラマ性の一行詩。今、こんな句が浮かんだ。
革命やわが銀漢に海を容れ |
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| 蛇衣を脱ぐや複写の魂ばかり 堀本祐樹
同時作に、
白地着てひたくれなゐのいのちあり
夏の夜の開高健のジッポかな
母を売るコンビニありや十六夜
があり、いずれも秀句である。「白地」「蛇衣を脱ぐ」は八月の「しゃん句会」の特選句であり、「夏の夜の」「十六夜」は「はいとり紙句会」の特選並びに秀逸句。今月もまた『河』半獣神の巻頭を裕樹が連続して取った。「夏の夜」は私の知る開高健の見事な自画像である。「十六夜」は寺山修司の短歌を一行詩に本歌取りした作品。
「蛇衣を脱ぐ」とは、蛇の脱皮が初夏に目につくことをいう。例句としては、
髪乾かず遠くに蛇の衣懸る 橋本多佳子
蛇の衣むしやうに午の寂しくなる 角川春樹
裕樹作品の句意は、蛇の衣と同様に、現代は実体を離れて複写された抜け殻が流通する社会であり、さらに、魂さえも複写されたコピー人間によって現在の社会が成立している風刺の一行詩。詩としてリズムも良く、自己の投影の効いた作品。 |
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| 夏の終りの鍵穴が上と下 滝口美智子
同時作に、
酔芙蓉少年が扉を閉めにくる
おぶらあとで包みし朝小鳥来る
「夏の終り」の一句は、九月の『河』東京例会での特選を、「酔芙蓉」「小鳥来る」は秀逸を採った。句意は明瞭で、晩夏の鍵穴が上下に二個所ある、といっただけだ。つまり目に見えるものとしてはドアと二つの鍵穴のみが読者に提供されているだけである。日常の中に詩を発見することが、「魂の一行詩」の最も重要な要であることを、私は何度も語ってきた。外出さきから戻ったマンションのドアには、深い二つの鍵穴がある。ドアの内側には、日常の闇がわだかまっている。この句の眼目は、季語の「夏の終り」。「夏の終り」の上五にこの一行詩の全体重がかかっている。まさに現代の危機意識を詠んだ繊細な一行詩である。滝口美智子の作品としては、『河』五月号の次の作品に続いて感銘した。
父一人かげろふを食みこぼしゐる |
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| キャラメルのおまけで遊ぶ十三夜 神戸恵子
同時作に、
体内の水が少なし鳩を吹く
がある。「鳩を吹く」は感覚的な一行詩だが、「十六夜」の句の方は、日常の中の不吉なドラマを持った一行詩。そして、この句も上五・中七の「キャラメルのおまけで遊ぶ」という散文的な表現が、下五の「十六夜」の登場で一変する。子供を相手にしてのゲームなら考えられるが、キャラメルのおまけで大人の女性が遊ぶ訳がない。三橋鷹女の次の句が、突然、ひらめいた。
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
「十三夜」という古典的な美しい季語が置かれることで、キャラメルのおまけで遊んでいるのが、子供ではなく、正常ではない存在の、例えば鬼女、或いは狂っていることを自覚しているおのれという存在。勿論、虚の世界。翻って、私はどうなのだろう。十三夜の月光の中で、私なら何を相手に遊ぶのだろう。考えがそこに行き着くと、私は私自身の狂気に寒けを覚えた |
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| 風に色なく灯さずにゐる机 若宮和代
同時作に、
秋天や蹠の白き猿田彦
北軽井沢の夏も終はりの目玉焼
「風に色」の句は、八月の「しゃん句会」での特選句。「目玉焼」の句も実に良い。若宮和代の作品は、一貫して安易に「かな」や「けり」の断定の切れ字を使わないのが、一行詩の効果を高めている。俳句と川柳の違いは、切れ字の使用の有無にほぼかかっている。同様に、一行詩として成立させるためには、下五に切れ字をもってこない方が成功する場合が多い。勿論、これは一般論であって、私の場合は逆に「けり」「かな」を使用した一行詩が多い。このことは、作者の体質や個性の違いにもよるが、和代の場合、「けり」「かな」の切れ字をできるだけ使用しないように注意を払っている、ということ。今回の「風に色」以外の全作品についても同様なことがいえる。「風に色」の作品が秀れているのは、この句も日常の中に詩を見い出したことによるが、一句全体の立ち姿が良い。そして、机の前にいる作者の時間経過が色彩を伴って、鮮やかに浮かび上がってくる。勿論、作者の自己投影も充分行きとどいている。 |
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| ランボーの詩の空白を泳ぐなり 梅津早苗
同時作に、
墓場まであと何マイル秋の風
があり、「秋の風」の句は、寺山修司の最晩年の詩のタイトルを使用してのこと。「ランボーの詩の空白」については、二通りの解釈が可能になっている。つまり、若くして詩の伝説となったランボーの、詩を捨てたその後の空白を作者である梅津早苗が遊泳しているという解釈。もう一つはランボー自身が詩の空白を泳いでいる、ということ。一行詩の観点に立てば、後者の方が面白い。つまり、「ランボーの」の「の」は、主格の「が」と想定することが可能だからだ。しかし、「ランボーが」とするより、やはり「の」の方が良い。それだけ想像の範囲が広がるからである。
ランボーのその後知らず秋つばめ 春樹 |
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| かなかなの降るほど鳴いて誰もゐず 吉川一子
八月の『河』東京例会での特選句。この作品には、中七・下五にかけて句の勢いがある。「降るほど鳴いて」という強い措辞に対して、「誰もゐず」という表現の転舵が面白い。『河』八月号の辺見じゅんの次の作品が参考になろう。
河童忌や椅子二つあり誰もゐず
辺見じゅんの「河童忌」の句意は、文字通りでしかないが、誰もいない椅子が二脚あるという報告でも、実景でもない。この句は、シュールな油絵なのだ。否、それ以上に現代人の不在感を象徴した詩の世界なのである。ぽつんと置かれた二脚の椅子は、永遠に人が坐ることはない。もはや、人間そのものが現世から消滅してしまったからである。(『河』九月号より)。
吉川一子の作品は、辺見の現代人が描く不在感ではなく、もっと温度を伴った喪失感である。例えば、この句の作者が私であった場合、読者は二年前に亡くなった母・照子の喪失を詠った句と解釈するであろう。命日の八月九日の真昼は油蝉が辺りを圧し、通夜の始まる日暮は蜩が降るほどに鳴き始めた。次の一連の句は、その時の作品。
いづこより来たるいのちや蝉時雨
蝉しぐれ母遠けれど空に満つ
遠き樹にひぐらし鳴けり昴の忌
吉川一子の作品は、蝉ごえの滴りの中に誰もいないという実景を詠っただけだが、作者の喪失感は充分に読み手に伝わってくる。吉川一子は私と同様に、身近な存在の喪失を詠ったように思えてならない。何故なら、一子の作品から辺見のシュールな油絵に対して、温度を伴った水彩画をイメージしたからである。 |
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| 原発の前金髪の案山子嬢 未益手瑠緒
八月の『河』東京例会で特選を採った句。同時作の次の句も、母・照子の句集『秋燕忌』を踏まえた佳吟。
糠床に野分聞きゐる照子の忌
手瑠緒作品の「案山子嬢」の句意は文字通り、原子力発電所の前の案山子が金髪だった、ということ。「金髪の案山子嬢」が面白く、さらに「原発の前」にあるというのがユーモアを越えた風刺の一行詩として成功した。 |
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| 終電車錆びたる鮎の群を吐く 岡田 滋
九月の「しゃん句会」で特選に採った作品。兼題は「錆鮎」。滋は魂の一行詩を始めて一年足らずの新人。しかし、一行詩に賭ける情熱は凄まじい。ある種の狂気を帯びている。私が俳句を十八年振りに再開したのは三十七歳の、誕生日を迎える直前である。以来、私は俳句に熱狂した。その俳句再開の宣言が次の句である。
火はわが胸中にあり寒椿 『カエサルの地』
昨年出版した第十六句集『JAPAN』に、次の一句がある。
胸中の太刀を眠らせ去年今年
私の句歴もかなりになったが、目指す姿勢は決してぶれて来なかった。それが不良である私の本質でもある。岡田滋の句歴を問うのは馬鹿げている。密度の時間と情熱が、大森健司、堀本裕樹、鎌田俊に続く若手一行詩人を生むかもしれない。岡田滋の「錆びたる鮎」は、勿論、人間である。終電車から吐き出されてくる錆び鮎はもの悲しい。風刺の一行詩ではなく、そこに自分を乗せたペーソスの一行詩と解釈すべき作品。 |
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| 終戦日自分のためのパンを買ふ 吉野さくら
同時作に、
藤製のピンクのバッグ終戦日
終戦日すくひきれない青みどろ
終戦日家の一つが炎えはじむ
辿り着くメトロの出口終戦日
全作品が終戦日を詠っているが、一番心を打たれたのが、「自分のためのパンを買ふ」である。それに比べると、他の句は報告に過ぎない。しかし、終戦日を単なる情緒で詠むのではなく、おのれに引きつけて、自分のいのちを、ぶざまに、正直に詠む姿勢に感動した。魂の一行詩は、さくら作品のこの句のように、おのれの「いのち」を乗せなければ、一体、なんの意味があるのか。突き刺すような一行詩。 |
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| 今夜だけあなたの海になる人魚 山田友美
同時作に、
あなたといふ胸はいつかの夏怒涛
麦酒飲むスローなJAZZの昼探し
お揃ひの浴衣着て待つ遠花火
いずれの句も青春の讃歌をモチーフにしている。今月の『河』全作品の中で、最も新鮮な一行詩。句意は実に平明。誰にでも理解でき、共感できる作品。勿論、この句に季語はない。しかし、季語を無理矢理入れたとすれば、この句の鮮度は落ち、魅力のない駄句に終るだろう。『河』の九月号に初登場した、十六歳の岡本汀の次の句と並べると面白い。
スカートを短めにして貸しボート |