魂の一行詩
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魂の一行詩    > 一覧に戻る
2006年10月号「月刊ランティエ。」掲載分  ※下に批評を掲載しています。
雑踏の中を泳ぎて白扇 松下千代
蝉の殻遠くにひとつ灯がともる 滝平いわみ
行水の女体ましろく暮れてをり 本宮哲郎
脱ぎたての蛇の衣なり濡れてゐし 坂内佳邇
河童忌や椅子二つあり誰もゐず 辺見じゅん
熱帯夜抱かれて五感とりもどす 北村峰子
青い夜も赤い夜もあり灯取虫 福原悠貴
蚊を打つて土曜の午後を持て余す 神戸恵子
山のいろ消えて灯のいろ夏料理 未益手瑠緒
骨あをく眠り沖縄暑きかな 藤田美和子
水底に祗園まつりの豆腐かな 加藤千秋
でで虫のネジ巻いて葉に戻しけり 杉林秀穂
火焔土器よりつぎつぎと揚羽かな 堀本裕樹
人ごゑの沈まずにゐる夜のプール 若宮和代
吾が四肢のするすると伸ぶ夏座敷 川越さくらこ
半夏生少女の腕の貼り刺青 稲野博明
スカートを短めにして貸しボート 岡本 汀
雑踏の中を泳ぎて白扇   松下千代

同時作の、
溌剌とした大地より胡瓜もぐ
さらさらとした?のなかを天の川
おもちゃ箱ひっくり返る梅雨の家
銀漢へ渡る翼を広げけり

どれもが良い。「白扇」の句は、七月の「しゃん句会」の特選句。この句、久保田万太郎の次の代表句が頭を掠める

あきかぜのふきぬけゆくや人の中

雑踏の中を泳ぐように歩いてくるのは人間である。その人間は、白扇をあおいでいる。扇をあおぐ人間を登場させず、扇だけに視点を定めた。さらに中七の「泳ぐ」の表現が適切だ。

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蝉の殻遠くにひとつ灯がともる   滝平いわみ

同時作に、
十薬や用なくなりし虎の巻
があり、この句も文句なしに良い。「十薬」の前に、
誇れるは亡子のみ雲ゆく青嶺かな
があるので、「用なくなりし虎の巻」の句意がはっきり理解できる。「蝉の殻」の句も、亡き子への思いが揺曳している。句意は、蝉の殻の遠くに今ひとつの灯がともった、というそれだけだが、「俳句こと説」の状況報告ではない。「蝉の殻」は、魂の抜け殻である。つまり、「蝉の殻」は亡き子の肉体の象徴である。死者の遠くに、常のごとく灯がともり始めた、という詠嘆である。正に魂の一行詩そのもの。秀吟。

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行水の女体ましろく暮れてをり   本宮哲郎

『河』七月号の次の句と比べると良い。

恋の猫月下の橋を鳴きながら

俳人協会賞受賞作家である本宮哲郎は、こよなく風土を愛し、それを詠い続けて来た。「行水」の句意は明解。中七・下五の「女体ましろく暮れてをり」は美しい。前号よりも、更に良い。風土作家である本宮哲郎が、魂の一行詩の重要なモチーフである「恋の句」または「エロスの詩」を詠もうとしている。作者の句境の恋化に瞠目した。秀吟。

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脱ぎたての蛇の衣なり濡れてゐし   坂内佳邇

「蛇の衣」とは、初夏に蛇が脱皮したあとの抜け殻のこと。例句としては、
髪乾かず遠くに蛇の衣懸る   橋本多佳子
脱ぎ了へしやすらぎ蛇の衣にあり   後藤比奈夫

脱皮したばかりの蛇の衣が別に濡れている訳ではない。だが、人間の赤子が産れた時、羊水で存分に濡れているように、或いは皮を剥がされた動物が濡れているように、皮自身が濡れているという感性は、読者は充分に共感できるはず。

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河童忌や椅子二つあり誰もゐず   辺見じゅん

「河童忌」とは、小説家芥川龍之介の忌日。昭和二年七月二十四日、服毒自殺。享年三十六歳。死の年に「河童」の作があり、好んで河童の絵を描いていたので、命日を河童忌と呼んで親しまれている。例句として、
河童忌や河童のかづく秋の草   久保田万太郎
河童忌や誰に聞いても知らぬ家   角川春樹

辺見じゅんの「河童忌」の句意は、文字通りでしかないが、誰もいない椅子が二脚あるという報告でも、実景でもない。この句は、シュールな油絵なのだ。否、それ以上に現代人の不在感を象徴した詩の世界なのである。ぽつんと置かれた二脚の椅子は、永遠に人が坐ることはない。もはや、人間そのものが現世から消滅してしまったからである。現代人が常に描く未来の不安感が、象徴となって誰もいない二脚の椅子として登場する。一脚ではなく二脚であるのは、人間の絆から来る。人が集団として存在し得る最少の数が二なのである。シュールな一行詩。

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熱帯夜抱かれて五感とりもどす   北村峰子

同時作に、
生き死にの立ち話して花南瓜
パリー祭スペアボタンをなくしをり
形なきものを欲する蛇の衣
藍浴衣足らぬものなどありません

があり、全て良い。そして、全句が「エロス」と「タナトス」の詩なのだ。生は限りなく死に近く存在する。「生き死にの立ち話」も「スペアボタンをなくしをり」も「形なきものを欲する」も「足らぬものなどありません」も、「抱かれて五感とりもどす」に対する反語である。「抱かれて五感」を取り戻したいという作者の、ぎりぎりの「エロス」の詩。抱かれるという触感のぬくもりを、叫びだしたいほどの願いとして、切実に読者に伝ってくる。現代の俳人、歌人、詩人の全作品を凌ぐ「魂の一行詩」を作者は詠い続けている。

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青い夜も赤い夜もあり灯取虫   福原悠貴

「灯取虫」とは蛾のこと。六月の「しゃん句会」の兼題である。『河』七月号の松下千代の次の作品と共に、私が特選に採った作品。

灯に倚りて青蛾となりしをんなかな

私が当日に投句したのは、
蛾が卵生みをり娼家の灯の暗し
昼の蛾や子を喰ふ母を見てをりぬ

松下千代も、私も、そして福原悠貴も、汚いながらも蛾に「エロス」を嗅ぎとっている。福原悠貴の「青い夜も赤い夜もあり」とは、七月号の千代作品と同様の「紅灯の海」を詠った。つまり、青い夜と赤い夜は、次の私の作品が説明になろう。

赤き灯に青き灯に倚る灯取虫

然し、私の句が灯取虫の季語に寄りかかっているのに比べて、「青い夜も赤い夜もあり」の方が、断然良い。悠貴の詩的感性が生んだ美しい表現。

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蚊を打つて土曜の午後を持て余す   神戸恵子

同時作に、
波音を抱へて蚊帳の深さかな
があり、蚊帳を海の象徴と捉らえた佳吟。しかし、「蚊打つ」の句は、さらに作者の思いが深い。中七・下五の「土曜の午後を持て余す」の措辞が適切。私の次の二句が読者の参考になろう。

蚊搏つて身の内どこか空ろなる
蛇打つて途方にくるる日暮かな

私の「蛇打つ」たあとの心境は、心理的な「暗さ」であり、神戸恵子の「蚊を打つ」たあとの思いは心理的な「倦怠」である。『河』三月号で、神戸恵子の次の句を採り上げて批評した。

目を持たぬものが目覚めし鎌鼬

この句に関連して、次のように述べた。

神戸恵子はおのれの隠を鎮めている。

詩人の辻井喬氏が私の『角川家の戦後』に関連して、詩作品に修羅がいるかどうかという物指しが現代詩の中で失われた、と言い、さらに詩人の胸中に修羅が静かにうづくまっていなければならない、と断言した。辻井喬氏のこの詩に対する指摘は正しい。辻井喬氏との対談でも、この修羅の問題が提示された。私の詩集は修羅に成らざるを得なかった漢の「かなしび」と辻井氏は捉らえた。この指摘も多分正しいのだろう。私への辻井氏の評は、そのまま私の神戸恵子に対する評である。そして、中七・下五の「土曜の午後を持て余す」は、恵子の修羅を鎮める思いが隠され、さらに性のアンニュイまでが微かに私に伝って来た。作者の無意識下に蠢く隠としてだ。不思議なエロチズムの匂いのする一行詩である。しかも、何故か暗い。

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山のいろ消えて灯のいろ夏料理   未益手瑠緒

神戸恵子作品と一転して明るい健康的な未益作品。同時作に、「目の中へ入れても」という詞書で、
四帖半狭しせましと天瓜粉
があり、多分、孫と思われる手離しの生命賛歌の句があり、「夏料理」の句も、それに続く、生命の喜びの句と言ってよい。同時作の次の句も「夏料理」の延長にある。
平泳ぎ少し平らになりたくて

三句並べて眺めてみると、作者の風貌が読者に浮かび上がってくるであろう。「夏料理」の句は、京都貴船の川床料理が連想される。目の前の山の緑が闇に消えてゆくと、今度は料理屋または宿の灯が夏料理を照らし出す。膳の上には鮎の塩焼が、さらに床の上には蚊遣香が焚かれ、水の音が快い、といった風情。私の俳句三原則の「映像の復元力」に添った作品。臨場感があり、視覚ばかりでなく、聴覚、嗅覚までが再現され、何だか読み手である私の食欲まで刺激される。

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骨あをく眠り沖縄暑きかな   藤田美和子

六月の『河』東京中央支部の句会で、私が佐川広治編集長と共に特選に採った句。私の次の句が参考になろう。

父の骨洗ふや卯波走り来る

私が三十五歳だった当時、フィリピンのルソン島アパリ港から沖縄を経て、鹿児島湾まで、五〇〇〇年前のアウリガー・カヌーを再現して航海したことがある。黒潮文化の伝播を探る学術調査である。その時、沖縄諸島に残る洗骨の風習も、調査の対象であった。私の句は、その遺骨を、風葬の後に洗骨する習俗を踏まえた作品。藤田美和子の「骨あをく眠り」は、民俗学を踏まえながら、太平洋戦争の悲劇的な沖縄戦を詠った作品。沖縄戦には「ひめゆり」部隊を初め、数々の哀話が残る。私の製作した映画『男たちの大和』も戦艦大和の沖縄水上特攻の悲劇を描いた。そして、その悲惨な犠牲の上に立った現代の世相を暗喩として批判しているのだ。それが中七・下五にかけての「沖縄暑きかな」なのだ。「風刺」が魂の一行詩に於いても、重要なモチーフであることは、斎藤一骨さんの次の句の批評で述べた。

たちまちに独楽の哀ふ仏土かな

藤田美和子の上五・中七の「骨あをく眠り」は、風刺を美しい一行詩として成立させた。

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水底に祗園まつりの豆腐かな   加藤千秋

水がいっぱいに溢れた豆腐桶の底に、夏は冷奴として食される豆腐が沈んでいる。それも祗園祭の今日この頃だ、という句意である。この単純な景が読み手の心を強く打つ。詩そのものであるからだ。日常の中に詩を発見することの重要性を、私は何度も説いて来た。この句がそれを実践している。水底に沈んだ豆腐が詩に成るには、中七の「祗園まつり」という華やかな季語がどれほど重要な位置を示しているか、読者はそれを実感して頂きたい。季語にもたれかかるのではなく、季語の「いのち」を汲みとった作品。これを「季語の恩寵」という。文句なしの秀吟。加藤千秋の代表作である。

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でで虫のネジ巻いて葉に戻しけり   廣瀬仙房

同時作に、
ががんぽや生涯ほわんと生きてゆく

上の二作品と、昨年の『河』十一月号の次の作品を並べて鑑賞して欲しい。充分に作者の人柄が読者に伝わるはずだ。

曼珠沙華噛み殺したいほど妻が好き

『河』の投句用紙の裏の通信欄に、次の文面が貼られていた。

わたしは投手   杉林秀穂

今、私は背番号十八を付け、河ドーム球場のピッチャーマウンドに立っている。打者は最強の四番打者角川春樹。私は目の前に立ちはだかる強打者を空振りの三振に打ち取りたい野望に駆り立てられている。(以下略)

私は良き打者を目の前にし、幸せを全身に感じている投手。この打者に打たれるのなら投手として本望であり、ましてや空振り三振に打ち取れれば、この上ない幸せなのだ。この事は全ての名投手も言って来ている。

『河』の主宰が、角川春樹先生で本当に良かったとつくづく感じている。なぜなら、自分が今思い切って「精一杯自分の球」を投げられる「河ドームのマウンド」に立っていられるからである。

「でで虫」とは、「かたつむり」のこと。例句として、
かたつむり甲斐も信濃も雨のなか   飯田龍太
でで虫や昨夜に上がりし雨こぼす   角川春樹

でで虫は半透明の渦巻の殻を負った陸生の巻貝。渦巻の殻をゼンマイに見立て、ネジを巻いて、葉から落ちたでで虫をもとの場所に戻してやった、の句意。勿論、でで虫のネジを巻いて戻すというのは、人間の惜しみない優しさの譬喩。小動物に対する作者のユーモラスな、そしてヒューマンに満ちた一行詩。何か童話的な世界が視野に拡がってくる。

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火焔土器よりつぎつぎと揚羽かな   堀本裕樹

同時作に、
青嵐たましひの帆を張りにけり
「変身」を閉ぢてごきぶり打ちにけり

がある。特に「ごきぶり」の句が面白い。カフカの「変身」を閉ぢて、カフカの変身かもしれないごきぶりを打つ、という普段の裕樹作品には見られないユーモアがある。裕樹の作風も変身を遂げようとしているのか。

「揚羽」の句は、「しゃん句会」の特選句。縄文時代の火焔土器の中から、歌人の釈迢空ならさしずめ「黒い人形」か、裕樹作品の場合、揚羽蝶(多分、黒揚羽)がつぎつぎと飛び出してくる。かつて、私は俳句の中に縄文人のエネルギーを注入しようと試みた時期がある。特に、句集『信長の首』『流され王』の頃のことである。勿論、句は実景ではない。幻想の一行詩。そして、この幻想は迢空同様に決して明るくない。むしろ、不吉ですらある。だがこの句、火焔土器を登場させたことで縄文人の持つ健康なエロスが底に流れている。迢空との違いを、はっきり見せた一行詩。

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人ごゑの沈まずにゐる夜のプール   若宮和代

同時作に、
炎天の胸に開いて非常口
深く挿したる七月の白いバラ

があり、いずれも良い。「夜のプール」の句は、二十年前に遠野の民宿「曲り屋」での出来事を思い出させた。十二月三十一日の大晦日の晩のことである。便所は一階の囲炉裏付近にあり、私は二階の一室に泊まっていた。トイレに立った私が廊下を歩き出すと、囲炉裏のある一階から談笑する泊まり客の声が聴こえる。まだ客の大半は起きていて日の出を迎えようとしている。私が階段を降り始めると、談笑する声は私の足音に気づいて、ピタッと止んでしまった。別に人の邪魔をする気もないものの、トイレに行きたいという生理的な要求は止めようもない。そのまま下に降りて、驚いた。囲炉裏の近辺には誰もいない。霊魂ではない。今まで囲炉裏にいた人々は、すでに眠りについているにもかかわらず、魂の方は依然として囲炉裏にいたのである。遠野とは不思議な場所だった。故に、遠野物語が誕生したのであろう。

若宮和代の上五・中七の「人ごゑの沈まずにゐる」とは、昼間、喧噪に満ちていたプールが夜になっても、肉体はそこに存在しないものの、昼と同様にプールの辺りに人声がする、という句意。この句、私には幻想とはとても思えない。虚が実を超えた一行詩。

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吾が四肢のするすると伸ぶ夏座敷   川越さくらこ

同時作に、
月の尾を手繰り寄せをる水母かな
胎内の睡りにとどく片かげり
流燈の父母橋を過りゆく

があり、作者の視点は一貫している。従来の俳句とは明らかに異にする一行詩の世界。

昔、私の富山の少年時代、昼寝している部屋に蛇が入り込んで来たことが、二度ほどあった。作者は中国の「白蛇伝」を読んだことがあるのだろうか。白蛇が人間に化身していても、なにかの折にその正体を曝け出してしまう。句の背景は、この白蛇伝説をモチーフにしている。作者自身の本体は、夏座敷の畳の上で睡っている時、或いはなにかの弾みに、まるで蛇でもあるかのように四肢がするすると伸びてゆく、という句意。この句の眼目は中七の「するすると伸ぶ」だが、作者の幻想というより、潜在意識下の古代的恐怖であろう。自分の前世が、或いは本体が人間以外の存在であると認識することはなかなか容易ではない。つまり、恐怖が認識を妨げているからである。私自身を例にとると、私の本体は青竜である。私の中で、自分が龍神であるという認識を持っているが故に、いつか自分の肉体が龍に変身するのではないか、という思いを未だに一掃できないでいる。だから、私は川越さくらこのこの句に、限りない親近感を覚えるのだ。勿論、この句を幻想的な一行詩として捉えてもさしつかえないし、作者の意図もそこにあると考えた方が自然である。

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半夏生少女の腕の貼り刺青   稲野博明

同時作に、
光秀忌雨の蛍となりにけり
光秀忌雨の蛍となりにけり
文明は肥満してをり梅雨茸

があり、特に「麺麭に黴」が面白い。「半夏生」とは、陽暦の七月二日ごろ。半夏という毒草が生ずるといわれ、この日はさまざまな禁忌があり、物忌みの風習があった。今月号の投句で一番多かった季語だが、成功したのは、この一句だけだった。もともと刺青は、魔除けであった。古代海人族の倭人たちは刺青をして鮫等から身を守ろうとした。後に、犯罪者に対して刺青を施したが、現代では一種のファッション。七月二日の物忌みの日に、本来は魔除けである刺青を少女が腕に貼りつけている、という光景。本来的な意義が半夏生にも刺青にも失われた現代の世相を詠んだ作品。この句もドラマ・トゥルギーを伴った現代詩の世界。

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スカートを短めにして貸しボート   岡本 汀

同時作に、
花占い私は素朴な茄子の花
京言葉話せずくずすカキ氷
打水す母の姿に行ってきます
新築に祖父母招いて茄子カレー

があり、作品を読む私を微笑ませた。どの句も俳句的言葉とは無縁な初々しい作品。

そのはずだ。作者は十六歳の高校生。「貸しボート」の季語が実にいい。勿論、上五・中七の「スカートを短めにして」が下五を導びき出している。手垢のつかない伸び伸びした言葉が一行の詩として成立している。「魂の一行詩」運動を展開していく上で、岡本汀のような小さな詩人が誕生する必要がある。期待という言葉は重過ぎるので、私は汀を見守るという態度でいたいと思う。

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