魂の一行詩
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2006年9月号「月刊ランティエ。」掲載分  ※下に批評を掲載しています。
立泳ぎの父を遠目にしてゐたる 山口奉子
炎天やあるべきものがそこにある 大森健司
アカシアの花に昔の雨が降る 松下千代
山繭のみどりこの世にまぎれなし 佐野幸世
竹皮を脱ぐ月光の降る夜は 酒井裕子
初つばめ積木の家へ帰り来し 市橋千翔
柿落花きのふに肩を叩かれる 北村峰子
卯波立つ夜はたっぷりのカレー煮る 福原悠貴
ごきぶりと目の合う午前三時かな 西川輝美
夏立つや甘いソースの肉を食ふ 丸亀敏邦
ひばり野に時計仕掛けのわれを置く 鎌田正男
何才と思し召しての落し文 廣瀬仙房
とほくとほくの風を見てゐる素足かな 若宮和代
愛鳥日一リットルの水を買ふ 菅城昌三
やなことも生きることかも冷奴 高橋祐子
「また逢おうね」の月日が来ない心天 岡本勲子
麦秋の空やブリキの鳥の群れ 堀本裕樹
走り梅雨ビデオテープの巻戻る 倉林治子
立泳ぎの父を遠目にしてゐたる   山口奉子

同時作に、
裏に棲む蛇がくつくつ笑ひけり
にんげんをやめてプールを折り返す

「蛇」の句は、六月の東京例会で特選、「プール」の方は、秀句に採った。「プール」の句は、人間が人間以上の力で、例えば魚となって泳いでいる景。くつくつ笑う蛇は、シュールに詠った一行詩。両句とも、それなりの魅力もあるが、「立泳ぎの父を」遠くから眺めている、という日常性には及ばない。この句は、ぐんぐん人を惹きつける力を持っている。これが俳句的な言葉である「遠目癖」としたら、台無しになる。父との距離は、実際の空間でありながら、さらに心理的な距離感が内在している。奉子の作品としては、次の句以来の成功作。

長き夜の東京駅で待ち合はす   『河』十二月号

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炎天やあるべきものがそこにある   大森健司

同時作に、
梅雨に入る自分のいない扉を開けて
父の日と思ふて見たる夕日かな

「父の日」の句は具象的な力を持っており、「梅雨」の一句は、具象的な一人住いの部屋に鍵を開けて入るという行為を、逆に抽象化してみた佳吟。「炎天」の句は、圧倒的な力強い一行詩にして、健司の代表作となる秀吟。具体的なものを登場させないで、しかもありありとした実在感を持つ根源俳句。さらに「炎天」という季語がこれ以上にないという力を発揮している。今月の『河』全作品の中で、他を圧する魂の一行詩。素晴らしいの一言に尽きる。この一行詩を理解できない俳人は、詩人ではない。私の次の代表句に匹敵する。

存在と時間とジンを晩夏光   『存在と時間』

そこにあるすすきが遠し檻の中   『檻』

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アカシアの花に昔の雨が降る   松下千代

同時作に、
合歓の花ホットミルクを沸かしけり
夜光虫海図の上を走りけり

大森健司の「炎天」の句とは一転して、優しく懐しい一行詩。「アカシアの花」は六月の「しゃん句会」の兼題で、日本では一般にミモザといわれている。例句としては、
ミモザ咲き海かけて靄黄なりけり   水原秋桜子
アカシアの花のうれいの雲の冷え   千代田葛彦

私の投句は、
アカシアの花や朝日の当たる家
「朝日の当たる家」とは、六〇年代にヒットしたアニマルズの歌。サンフランシスコの娼婦の家のことである。千代の句は私が「しゃん句会」で特選に採った。私の句がアニマルズの歌を背景にしていると同様に、六〇年代に日本でヒットした歌を念頭に置いて「昔の雨が降る」と持ってきた。しかし、日本の歌を背景に考えなくても、中七・下五の措辞が良く、心が癒される一行詩。

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山繭のみどりこの世にまぎれなし   佐野幸世

同時作に、
山一つ動かす気なり蟻走る
があり、この句も悪くない。しかし、「山繭」の一句の方が遥かに良い。「山繭」とは野生の大型の蛾で、櫟や楢などの葉を食べ、黄緑色の繭を作る。これからとる山蚕糸は光沢があり絹糸の中で最上として珍重される。春の季語。例句として、
てのひらに山繭春の夕日透く   沢木欣一
がある。私は沢木欣一の抒情的なこの句が好きだが、佐野幸世の「山繭」の句も負けていない。彼女は山繭の色の緑にのみ視点を定め、中七・下五の「この世にまぎれなし」と大上段に言い切った。特に下五の「まぎれなし」の断定が良い。このような例句を挙げると、正岡子規の代表句である次の一句と飯田龍太氏が評価した私の句を採りあげる。
鶏頭の十四五本もありぬべし   正岡子規
秋風に紛れもあらず父の墓   角川春樹

或いは、私の初期作品『信長の首』の一句、
墳山の天狼父にまぎれなし
俳句と川柳の違いは、強い切れ字の断定にある。佐野幸世作品は、「この世にまぎれなし」と強く言い放つことによって、沢木欣一以外の他の例句を圧した。秀吟。

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竹皮を脱ぐ月光の降る夜は   酒井裕子

同時作に、
ぽあんぽあんと梅雨のはじめの魚板打つ
があり、これも「ぽあんぽあん」の擬声語が下五の「魚板打つ」にうまく照応して成功した。「竹皮を脱ぐ」の句は、六月の東京例会で私が特選に採った作品。夏の季語。例句としては、
竹皮を脱ぐやひかりを撒きちらし   青柳志解樹
竹皮を脱ぐや愚かな妻でよし   黛 執

勿論、竹が皮を脱ぐのは日中でも夜間でもあり得るのだが、作者の酒井裕子は月光の降る夜に殊さら皮を脱いでいる、と言っているのだ。まるで、裕子に詠われた竹は植物というより、蛇のような動物を連想させたところが、この句の手柄。私には妙齢の女性が服を月光の下で脱いでいるようなイメージを持った。

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初つばめ積木の家へ帰り来し   市橋千翔

同時作に、
比良比叡見えて卯の花腐しかな
がある。作者は数年前に先立たれた夫・徳太郎氏を偲ぶ鎮魂句集『花筐』を上梓した。その折の作品
羽ばたきの雁より享けし花筐
があり、あとがきに、「私にとって俳句は何よりの癒しであり、潤いを与えてくれる掛け替えのないものとなった」と書いている。「初つばめ」の一句は、昨年の『河』十一月号の松下千代の次の一句を浮かび上がらせる。

秋高し積木の家の建ちにけり

市橋千翔氏の句も、千代の作品と同様の感銘を受けた。「初つばめ」の上五は「晴」。 中七・下五の「積木の家へ帰り来し」は「褻」である。何故なら、千代の句と同様に積木の家は簡単に崩れることを前提にしているからだ。例えば、さらに北村峰子の次の句とも共通している。

寒月光集め砂城のでき上がる   『河』三月号

冬月の光を集めてでき上がった砂の城も、積木の家と同様に崩壊することを前提として詠まれている。燕は家の軒や梁などに営巣するが、前年の巣に再び戻ってくる。次の例句も、そのことが裏に隠されている。

夢殿に今年の燕来てをりぬ   米澤吾亦紅

初つばめは女主人ひとりの家に帰って来るが、その家は積木で作られ、いつ崩壊してもおかしくない状態になっている、ということだ。そして、この句の裏の背景に、作者本人が帰って来る、しかも崩壊しかねない積木の家に、ということが暗喩として示されている。

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柿落花きのふに肩を叩かれる   北村峰子

同時作に、
泰山木仰ぎて風の身につかず
青嵐索引はみな過去のこと

どの句も、荒涼とした作者の心象風景だ。泰山木の花を仰いでも、風は身に添わず、現在形として使用すべき索引はみな過去となっているというのだ。北村峰子は本年度『河』賞の受賞作家。「柿の花」は落花するときゴムのように弾んで転がる。例句としては、
柿の花地に落ち侏儒の頭蓋なる   佐藤鬼房

柿の落花を見つめる作者に、うしろから肩を叩くものがいる。振り向くと、そこに立っているのは過去の自分である、ということ。「きのふ」という目に見ることができない存在が、目に見ることができる実在として立っている、という奇妙でシュールな光景。さらに「きのふ」は昨日ではなく、過去全体の象徴として、この句の背景をなしている。

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卯波立つ夜はたっぷりのカレー煮る   福原悠貴

同時作に、
万愚節ガラスの塔が炎上す
春憂ひ絵皿に載せるもの一つ
さみどりの夜が蛾を吐く美しく

があり、「春憂ひ」は五月の「しゃん句会」で、「卯波」は四月の代官山のレストラン「シンポジオン」で開かれた「はいとり紙」句会で私が特選に採った作品。「卯波」の句は、「はいとり紙」句会の兼題で、私の投句は次の作品。

死化粧の妹うつくしき卯波かな
父の骨洗ふや卯波走り来る

私の作品が両句とも「死」をテーマにしたことと比べると、悠貴の作品は日常の出来事を一行詩に仕立てた。「春憂ひ」の句も充分に批評に価するが、私は「卯波」の兼題で、このような発想が浮かばなかったこともあって、この句に強く惹かれた。「卯波」とは、陰暦四月(卯月)の海上に立つ波のことで、夏の季語。例句としては、鈴木真砂女の次の代表作がある。

あるときは船より高き卯波かな

この句があって、鈴木真砂女は銀座裏の路地の一角に「卯波」という小料理屋を開いた。鈴木真砂女はカレーが得意で、「はいとり紙」句会は真砂女存命のころ、「卯波」で行われていた。だから、「はいとり紙」句会のメンバーだけは、真砂女特製のカレーを賞味したのである。私の獄中句集『海鼠の日』の中に次の一句が収録されている。

花は葉に真砂女が作るカレーの香

また七月の『河』東京中央支部の例会で、鈴木真砂女の詞書で次の作品を投句して、多くの参加者から採り上げられた。

水打つて銀座の路地を浄土とす

悠貴の作品「卯波立つ」は、鈴木真砂女の「卯波」でカレーを何度か食べたことがあったから、中七・下五の「夜はたっぷりのカレー煮る」が引き出されたに違いない。しかし、その事実を離れて、この句の作者自身がカレーをたっぷり作っている景も浮かび、中七・下五の新鮮さに感銘した。

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ごきぶりと目の合ふ午前三時かな   西川輝美

京都という都会に住む生活者の日常の一齣。「ごきぶり」は油虫とも言い、夏の季語。例句としては、
売文や夜出て髭の油虫   秋元不死男
があるが、ごきぶりと深夜に目が合った、という句の方が魅力があり、現代の抒情詩である「魂の一行詩」としては、輝美に軍配が上がる。しかも彼女の方がユーモアがあり、さらにペーソスが底流にひそんでいる。

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夏立つや甘いソースの肉を食ふ   丸亀敏邦

『河』七月号の次の作品に続いての登場

万愚節つばさ真西に向ひをり

「夏立つ」の句も、五月の「はいとり紙」句会で、私が特選に採った作品。「立夏」の例句としては、
おそるべき君等の乳房夏来る   西東三鬼
プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ   石田波郷

二句とも俳人の間では人口に膾炙した作品。この句も悠貴や輝美と同様の日常生活の一齣。「夏立つ」の季語に対して、中七・下五の「甘いソースの肉を食ふ」がとても新鮮。言葉に俳人特有のいやらしさがない。レストラン「シンポジオン」では、毎回メインに小ぶりのステーキがでる。この句のように甘いソースがたっぷりとかかっていて美味。丸亀作品は、勿論、「シンポジオン」が頭にあってのことではないが、なんとなく「シンポジオン」を連想してしまった。軽いタッチの楽しい作品。しかしながら充分に一行詩として成立している。

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ひばり野に時計仕掛けのわれを置く   鎌田正男

鎌田正男の作品は、過去に次の秀吟を発表している。

銀河にも吹雪く海峡ありにけり   『河』十月号

雁のはるかな水へ旅立てり   『河』三月号

『河』三月号の作品批評として次のように書いた。

「銀河」の句は、「魂の一行詩」としての代表的な作品だが、「雁」の句も、鎌田正男の詩人としての感性が生みだした美意識の結晶。

今回の「ひばり野」の句も、私は彼の詩人としての感性に舌を巻いた。「ひばり野」に自分を置くという発想も悪くないが、そのわれが時計仕掛けというのは例をみない。私の学生時代にスタンリー・キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』という映画があった。キューブリックは『スパルタカス』『紀元二〇〇一年宇宙の旅』によって大成功を収めた映画監督だが、『時計じかけのオレンジ』も鎌田正男と同世代の人間として観に行った。言葉の表現の「時計仕掛け」は同名の映画から採ったものだが、構築された世界は鎌田正男のオリジナルである。この奇想が古典的な調べである「ひばり野」と奇妙なオブジェとして成功した。佳吟。

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何才と思し召しての落し文   廣瀬仙房

同時作に、
ゆきずりの人に羅ほめられて
梅雨の夜やひとり遊びの万華鏡

二句とも巧みな句ではないが、俳句的な言葉の垢がついておらず、好感が持て、作者の生活を彷彿させる。作者は七十五歳の茶道教授。お茶の先生なら当然、夏になれば羅を着こなすであろう。「落し文」とは、甲虫が栗や櫟などの葉を巻いて卵を産みつけたもの。その形が文に似ている。例句として、
落し文二人暮しは静かすぎ   今井つる女
落し文なんの呪文でありしかな   丸亀敏邦

廣瀬仙房さんの句は、「落し文」を恋文にみたてている。私に恋文を寄こした貴方は、私をいったい何才だと思っているの、という意である。昨年の『河』八月号の丸亀敏邦作品と同様のユーモアに満ちた一行詩。廣瀬さんの身の丈で作る日常詠は、きわめて優しく、ぬくもりがあって良い。

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とほくとほくの風を見てゐる素足かな   若宮和代

同時作に、
いち度だけ振り向いてゐる白日傘
葉桜の道や誰とも行き逢はず

いずれの句も、五月の「しゃん句会」で特選に採った。中でも素足の句に感銘した。「素足」とは夏の季語で、女性の場合は室内的な雰囲気を持っている。昨年の『河』九月号の北村峰子の作品と通底する寂寥感を漂わせている。人間存在の根源的な淋しさと繋がっているのかもしれない。とに角、読者は改めて本年度『河』賞受賞者の北村峰子の作品と本年度『河』新人賞受賞の若宮和代と比較して眺めて貰いたい。

桜桃忌とっぷり暮れてゐる素足   北村峰子

とほくとほくの風を見てゐる素足かな   若宮和代

北村峰子の作品には時間意識が前面に出、若宮和代の場合は、空間意識が前面に出ているが、底辺には寂寥感が共通して流れている。目に捉えることの困難な遠くの風を見ている素足の作者。しかし、作者は風を見ている訳ではない。作者自身にしか理解できない時間を見ている、というのが真相であろう。「魂の一行詩」としても佳吟である。

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愛鳥日一リットルの水を買ふ   菅城昌三

同時作に、
夏暖簾をんなの後をくぐりけり
夕凪に泳ぎ疲れしふたりかな

があり、青春の過ぎ去った都会生活者のある日の一齣。私はさりげない日常の中に詩を見い出そうとする作者の姿勢を好ましく思っている。

白き靴水曜といふ静けさに   『河』八月号
炎昼に操られたる男かな   『河』九月号
降る雪や今年最後のバスが出る   『河』一月号

いずれの句も現代の抒情詩を詠うという「魂の一行詩」に添った作品。 「愛鳥日」とは、五月十日から一週間、鳥類保護の運動や催しが行われるバード・ウィークのこと。夏の季語。例句として、
愛鳥週間をんな同士のよく喋り   成瀬櫻桃子
がある。菅城昌三は愛鳥日だからスーパーやコンビニで一リットルの水を買った訳ではない。一リットルの水を買うという日常生活で、たまたま今日からバード・ウィークなんだと思ったまでであり、別に鳥に水を飲ませる為に買った訳でもない。しかし、上五の季語は、不思議に動かない。例えば、私の今回の批評に載せた句をもう一度登場させてみると、それが良く理解できる。

万緑の中やコップの水を足す

私の句は、「愛鳥日」では成立しないし、菅城昌三の句は「万緑」では魅力が薄れる。このように季語は、作者の「いのち」なのだ。日常の水を買うという行為が、「愛鳥日」という季語と出会って詩となった。これを季語の恩寵という。

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やなことも生きることかも冷奴   高橋祐子

豆腐商の祐子の作品を三か月連続して採りあげている。

「みどりの日」は、昭和天皇の崩御によって祝日の天皇誕生日が「みどりの日」と決められたが、これは私の命名による。例句として、
啓蟄やふふふふふふとあの野郎   『河』六月号
どしや降りや豆腐売れずに啄木忌   『河』七月号

今月号の作品は、
風食べて一途真っ赤なチューリップ
不機嫌に置かれてをりぬ白日傘
母子草子に問ふこともなかりけり

いずれの句も面白い。だが、作者が豆腐商ということを踏まえて、しかも作者の職業から離れても「冷奴」の句は面白い。俳句も一行詩もおのれの人生を、いのちを、こころを載せて作らなければ、何の意味もない。次の一句は私の最近作である。
放蕩のふぐり老いゆく冷奴
高橋祐子の「冷奴」は、生きるという意味を前向きに捉えていて好感を持った。

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「また逢おうね」の月日が来ない心天   岡本勲子

同時作に、
ひまはりや夜も魂は眠らずに
枇杷熟れてをりパトカーの昼休み

があり、特に「枇杷熟れて」が良い。昨年の『河』十二月号に彼女の次の句を採り上げた。

百円のパン買ふ店や鵙のこゑ

昨年十二月号の全作品と今回とを比べると、作品は明らかに向上している。「また逢おうね」の口語を上五に持って来て、中七・下五の「月日が来ない心天」は、誰にでも実感できることであり、それでいて句にしてこなかった作品。充分に読み手を楽しませて、尚、発想が斬新。

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麦秋の空やブリキの鳥の群れ   堀本裕樹

「麦秋」という季語からイメージされる画家といえば、ヴィンセント・バン・ゴッホ。強烈な色彩と激情的な絵を画く。海をイメージした麦畑を描くゴッホの頭上を、ブリキの鴉の群れが空いっぱいに埋めつくす。正に堀本裕樹の一行詩の世界が読者の前に広がる。

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走り梅雨ビデオテープの巻戻る   倉林治子

倉林治子といえば、私は必ず次の句を思い浮かべる。

赤い魚食べて真冬のバスに乗る   『河』三月号

ビデオテープも真冬のバスも都会のアンニュイな生活を一行詩に仕立てた作品。ビデオテープが自動的に巻き戻るという光景は日常にいつでもあること。それに「梅雨」という季語を持ってくることで一編の詩となった。即ち、私が主張するドラマ性ということだ。倉林治子の「走り梅雨」は、小説家の短編にも決して劣らない。彼女のことを、これから「憂愁の一行詩人」と呼ぼう。

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