魂の一行詩
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NEW ! 2008年8月号「月刊ランティエ。」掲載分  | メール一行詩 | 『河』作品抄批評 |
今月のアドバイス

俳句の写実を信じるな

正岡子規の俳句革新以後、高浜虚子の政治的な言動で、俳壇は半径五〇センチの「盆栽俳句」に終始し、詩の真実が見えなくなってしまった。
正岡子規の純粋で幼稚な写実主義は、近代西洋美術のデッサンに過ぎない。
しかも、高浜虚子は「写実=写生」という考え方で、俳句に枷まで架けてしまった。そして、現在も俳壇は俳句の根本を「写実」と「写生」に置いて、それ以後の思想を放棄してしまった。絵画におけるデッサンに過ぎない「写実」に力点を置く限り、俳句は写真や映像の下に位置することになる。
だが、写生とは本来、「おのが生を写す」ことである。作者の人生を、いのちを、こころを写すことなのだ。写実は写生の一部であって、全体ではない。詩の根本はわずか十七音の文字に、おのれの「いのち」と「たましひ」を乗せて詠うことなのだ。
ある時、俳人の森澄雄さんは、私に次のように語った。
「俳人は神仏を信じなくてもよいが、『虚』を信じなければ駄目だ。でないと巨きな世界が詠めない。今の俳人は最も大事な『虚』が詠めなくなった」
「虚にゐて実を行ふべし」の名言を芭蕉は残したが、詩の真実としては、「実」よりも「虚」のほうが巨きい。例えば、芭蕉の次の一句も完全な「虚」である。

一家に遊女もねたり萩と月   芭 蕉

そして、芭蕉の俳諧開眼となった次の一句もそうだ。

古池や蛙飛びこむ水の音   芭 蕉

蛙が池に飛び込んで音を立てたというのは、芭蕉のイメージである。何故なら、現実的には音がしないからである。芭蕉の多くの句は、空想句つまり「虚」である。子規・虚子の言う写実ではない。しかし、虚でありながら実以上の「詩の真実」を見出したのだ。

「ランティエ」メール一行詩
ランティエにはメールや葉書で一行詩が多数よせられています。それらすべてに角川春樹が目を通し、選び、批評した作品群をここに掲載します。
特 選
理由なき反抗サングラスとらず 曽根新五郎
麦秋やブルーノートの小さき椅子 秦 孝浩
キャメル吸ふ独りの部屋の寒い夏 田中雅博
カクテルの名前「そばかす」春燈 伊藤実那
初つばめ海の終りの映画館 愛甲無子
理由なき反抗サングラスとらず   曽根新五郎

同時作に、

夏草の夏草らしき高さかな
愛鳥の日の別荘の窓ひらく

がある。「愛鳥の日」とは、四月十日を愛鳥日として、山林の緑化に並行して鳥類保護が強化された。「愛鳥日」の句としては、俳句歳時記の例句に劣らない佳吟。一方、「サングラス」の句は、夭折したジェームス・ディーン主演の映画「理由なき反抗」をモチーフにした作品。中七下五にかけての「サングラスとらず」の措辞が新鮮で、類想のない、これも佳吟である。

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麦秋やブルーノートの小さき椅子   秦 孝浩

同時作に、

薫風やギターひとつの反戦歌
柿若葉ひとすぢ母を焼く煙
葉桜や母の棺が消えてゆく

があり、作者の母親を詠った挽歌の「葉桜」の句が良い。「麦秋」の一句の、中七下五の「ブルーノートの小さき椅子」の措辞は、映像の復元力が効き、ニューヨークのジャズクラブ「ブルーノート」の有り様が目に見える。そして、「小さき椅子」と感じた作者の「自己の投影」もさりげなく表現されている。しかし、この句の手柄は、上五の「麦秋」にある。麦秋の「明」に対して、薄暗いジャズクラブの小さな椅子を配することで、一行詩として成功した。

> メール一行詩「特選」一覧
キャメル吸ふ独りの部屋の寒い夏   田中雅博

同時作に、

シャンパンの消えゆく泡よ浮いて来い

がある。作者は吉祥寺のバー「WOODY」のマスター。それ故にシャンパンの佳吟が生まれたが、「寒い夏」の一句は、更に良い。アメリカの煙草であるキャメルが、中七下五の「独りの部屋の寒い夏」に対して、実に良く働いている。作者の生活ばかりか、風貌までが浮かび上がってくる。

> メール一行詩「特選」一覧
カクテルの名前「そばかす」春燈   伊藤実那

同時作に、

シェーカー振る田中雅博春の宵

があるので、作品がバー「WOODY」を舞台としていることが分る。「そばかす」は、正式には「そばかすだらけのお嬢さん」というオリジナル・カクテル。下五の「春燈」の季語が、この句を一行詩として成立させた。カクテルの由来はマスターの田中氏が、極度にそばかすの少女に弱いところからの命名。

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初つばめ海の終りの映画館   愛甲無子

同時作に、

太陽を落とさぬやうに天道虫
大南風窓から流すラブソング

があり、どの句も新鮮。「初つばめ」の一句は、中七下五の「海の終りの映画館」の措辞が良い。これによって景がパッと明るくなり、読み手のイメージが広がってくる。私は実在するシチリア島の、世界で最も美しい映画館を思い浮かべた。

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秀 逸
金曜の川面に白詰草投げる 松田浩昭
教科書に蛍光ペンを引きて夏 島 政大
学歴も金も無いけどここにいる 赤澤雄一
私など何処にもいない部屋の中 古賀由美子
青空が雲雀を落とす遊びかな 遠藤 稔
ただ仰ぐ特攻前夜の朧月 山崎寿也
新しき樹液流るる聖五月 永島 証
夏の日の記憶をたどる水の地図 村上 洋
パソコンがブルース歌ふ夜の底 八木正幸
別れを告げるその眼差し弧灯のように 武田侑子
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『河』作品抄批評
ジーパンの穴ひとつ増え春休み 松下千代
花の日や彼方で呼ぶのは誰ですか e原悠貴
たましひを鳴らして五月来たりけり 北村峰子
からつぽの日曜日祭笛が聞える 若宮和代
熱帯魚朝日あたらぬ部屋にゐる のだめぐみ
アロハ着てわつはつはつと笑ひけり 春木太郎
この人に一生賭けて馬鹿貝食ふ 蛭田千尋
海明や今日開店のピザ届く 巳亦和子
春寒の少年時間買い足せる 愛知けん
春泥の一本道を帰りけり 大多和伴彦
少女らの赤いストローに夏立てり 浅井君枝
椅子にまだ温もりのある花の雨 上田郁代
豆ごはん ずっと家族でいたかった 阿川マサコ
食器棚の中に立夏の朝が来る 大友麻楠
ジーパンの穴ひとつ増え春休み   松下千代

「ジーパンの穴」と題する同時作に、

若き夏走つて走つて来たりけり
青き踏むA、B、Cのビスケット

があり、まるで連作のような世界が展開されている。特に「青き踏む」の中七下五の「A、B、Cのビスケット」の措辞に感銘した。勿論、従来の俳句からは生まれてこない発想の面白さだが、『河』の句会でも、千代のこのような作品はなかなか評価されない。「青き踏む」の例句として、充分、取り上げる価値の高い佳吟。一方、「春休み」の句も、上五中七の「ジーパンの穴ひとつ増え」の措辞が新鮮。例句としては、

鉛筆一本田川に流れ春休み   森 澄雄

があるが、今日性という点では松下千代に軍配が上がる。

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花の日や彼方で呼ぶのは誰ですか   e原悠貴

「花の彼方」と題する同時作に、

風船や詩の風景に飛ばそうか

があり、松下由美の次の句と共に「花の日」「風船」の両句とも、読み手に対して呼びかけの形をとっている。

修司忌のその方舟に乗りなさい   松下由美

「風船」の句の、中七下五の「詩の風景に飛ばそうか」の措辞の新鮮さに感心したが、「花の日」の一句の、中七下五の措辞は、抽象性が高く出来の良い作品。今月の『銀河集』の中では、松下由美、北村峰子の次の作品と共に最高得点4を獲得した。

五月雨や流離の果てに父の椅子   松下由美
たましひを鳴らして五月来たりけり   北村峰子

「花の日」の一句を鑑賞する上で、私の句集『存在と時間』の、次の一句と比較したい。

父の日やどこかで人の呼んでをり   角川春樹

e原悠貴の「花の日」は、題が示すように「花の彼方」である。私の句の中七下五の「どこかで人の呼んでをり」と「花の日」の中七下五の「彼方で呼ぶのは誰ですか」の違いに触れたい。第一点は、口語と文語の違い。第二点は、モノローグとダイアローグ。第三点は具象性と抽象性。この違いは、俳句と「魂の一行詩」との大きな相違点で、従来の「盆栽俳句」では、福原悠貴の作品を全面否定してきた。しかし、第一回の日本一行詩大賞、新人賞では、「魂の一行詩」の思想、作句理念、そして詩の方向性は高い評価を受けたのだ。e原悠貴の詩の方向性は間違いなく正しい。秀吟である。

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たましひを鳴らして五月来たりけり   北村峰子

「五月来る」と題する同時作に、

初夏の海へと開く滑走路

があり、映像の復元力の効いた「初夏」の季語に相応しい佳吟。一方、「五月来る」の作品は、「五月」という季節に擬人法を用いて一句全体を抽象化した秀吟。例としては、本年度の『河』六月号の、私の次の一句がある。

ある晴れた日の三月を踏みにじり   角川春樹

癌と共生する作者にとって、「五月」という季節は、待ちに待った感がある。その喜びの表現が上五中七の「たましひを鳴らして五月」なのだ。たましいが鳴り響くとは、ベートウベンの「歓喜の歌」そのものと言ってよい。天も地も、鳥も草木も喜びに満ちている状態を指している。私の句集『JAPAN』に次の一句がある。

たましひに遅れていのち泳ぎけり   角川春樹

たましいに遅れて北村峰子のいのちも、喜びに満ちてくる。生き抜いた作者の生命感に満ちた一句。山本健吉氏の言う「俳句を方法論、あるいは存在論としてではなく、生命論として捕える」秀吟である。

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からつぽの日曜日祭笛が聞える   若宮和代

「からつぽ」と題する同時作に、

ゆく春や熱いシャワーを浴びてをり
とある夜の浅蜊しづかに砂を吐く

がある。若宮和代は松下由美と共に、本年度の『河』賞を受賞した。若宮和代の詩の特性が細やかな日常の中のドラマトゥルギーにあることは、何度も『河』作品抄批評で述べている。そして、彼女の詩の生まれる根源が、本質的な寂寥感にあることもだ。『河』賞の選考委員の一人である松下千代が、若宮和代の詩の感性を認めながらも、作品がパターン化していることを指摘した。確かに、その指摘は的を射ているが、千代が言うパターンとは、日常性のドラマトゥルギーを詠むという作句態度を指してのことだろうが、彼女の根源的な寂寥感を見落としていないだろうか。私は四月の東京例会で次の作品を発表し、最高得点を獲得した。

花あれば寂寥といふ詩の器   角川春樹

西行であろうが、実朝であろうが、あるいは芭蕉であろうが、古来、詩人は孤独の中で詩を詠みつづけてきた。寂寥感は常に詩を生みだす根源であった。平成二十年『河』に発表したいくつかの、若宮和代の作品を検証してみることにする。

秋燈のわが身ひとつをつつみけり   『河』一月号
冬の空今日に閉ぢ込められてゐる   同 二月号
焼きたてのパンにはさんでゐる孤独   同 三月号
北窓を開き明日もここにゐる   同 四月号
誰にも会はず復活祭の水を飲む   同 五月号

ほぼ毎月、『河』作品抄批評に取り上げられる前述の一連の作品を眺めても、そこから浮かび上がってくるのは、日常の中の寂寥感である。歌人の釈迢空のどの歌も、古代的な寂寥感が詠み手と読み手の間で魂の共振れを起す。次の代表句は、ほんの一例に過ぎない。

吹き過ぐる風をしおぼゆ。あなあはれ 葛の花散るところ なりけり   釈 迢空
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり   同

若宮和代の今月号の「祭笛」の一句も、本年度の『河』作品を並置してみると、同様に日常の中の寂寥感から生まれたことが解る。日曜日だからといって、作者の若宮和代にとって特別な曜日ではない。また休日でもない。上五の「からつぽの」の措辞に作者の万感の思いが読み手に伝ってくる。そして、中七から下五にかけての「祭笛が聞える」だ。「祭笛」という「晴」に対して、「からつぽの日曜日」という、「褻」。若宮和代の一連の作品を、ある種のパターン化というのは簡単だ。だとすれば、釈迢空の一連の作品も、西行もパターンの繰り返しということにならないか。
自分の存在意義が見出せなかった若宮和代にとって、唯一、「魂の一行詩」が現世に生まれたことの証となった。私の処女句集『カエサルの地』のあとがきに、次の一文を載せている。

俳句は芸でもなければ、機知でもない。私にとって俳句は、趣味ではなく、生き方だった。生きている証が俳句だった。しかし、俳句とはそれ以上の、生と死の間の意識としか言いようのない、不滅の文芸であった。

> 『河』作品抄批評一覧
熱帯魚朝日あたらぬ部屋にゐる   のだめぐみ

同時作に、

蛇口からを吐き出す寺山忌
ゆく春のピースをさがす木曜日
花冷えの夜のコートをまとひけり
逢へぬ日のわたしが腐る冷蔵庫

がある。中でも「冷蔵庫」の句が面白い。一行詩集『角川家の戦後』に次の一句があり、その影響もあるだろうが「冷蔵庫」の季語によって、恋の句となり、私の作品より面白くなった。実は私の句は、八王子医療刑務所の獄中句で、毎日のように囚徒がつぎつぎに死んでゆくのを眺めながら、自分もまた死者の列に従いてゆくのではないかという感慨である。

わたくしが静かに腐るクリスマス   角川春樹

一方、「ゆく春」の句は、のだめぐみがASUKAの芸名で主題歌を唄っている映画「神様のパズル」をモチーフにしている。宇宙の創造も、恋愛も、人生の出逢いも、全て神様のパズルで、ひとつひとつのピースが集まって形づくられている。私が製作した映画「神様のパズル」自体が、さまざまのピースが集まって完成した。それは、まさしく宇宙の意思によって創らされたという感慨が、私にはあるからだ。私自身、宇宙の大プレイヤーによってこの世で遊ばされている。この考えは獄中で生まれた。私の言う「生涯不良」には、そんな思いも含まれている。
本年度の『河』新人賞を受賞したのだめぐみの「熱帯魚」の一句は、まさしく「のだめ調」。中七下五の「朝日あたらぬ部屋にゐる」の措辞は、上五の季語である「熱帯魚」に対して抜群の働きを示している。「朝日あたらぬ部屋にゐる」は「虚」ではない。歌手になる以前のOL時代の「実」である。しかし、詩の真実としては「虚」であろうが、「実」であろうが重要な意味を持たない。例えば、芭蕉の次の一句も完全な「虚」である。

一家に遊女もねたり萩と月   芭 蕉

そして、芭蕉の俳諧開眼となった次の一句もそうだ。

古池や蛙飛びこむ水の音   芭 蕉

蛙が池に飛び込んで音を立てたというのは、芭蕉のイメージである。芭蕉の多くの句は、子規・虚子の言う写実ではない。その多くは空想句、つまり「虚」である。虚でありながら実以上の「詩の真実」を見出したのだ。のだめぐみの手柄は、朝日の当たらない部屋に対して、季語の「熱帯魚」を発見したことだ。何度も『河』作品抄批評で書いていることだが、これを「季語の恩寵」という。熱帯魚の季語によって、いかなる部屋に作者がいるか、読者は様々な想像を抱くことが可能になるからである。

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アロハ着てわつはつはつと笑ひけり   春木太郎

同時作に、

メーデーや小さな声を出してみる
夕焼やあしたもきつと生きてゐる

がある。「夕焼」の一句は、人生のペーソスを描いた佳吟。「メーデー」の句も同様である。『河』にとって春木太郎という作家の存在は大きい。しみじみとしたペーソスと一読爆笑させる力量に、私は心から敬服している。しかし、それ以上に、私は春木太郎の大ファンなのだ。「アロハ」の一句も見事な作品。このような「アロハ」の句を読んだことがない。中七下五の「わっはっはっと笑ひけり」の措辞に、私は舌を捲いた。

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この人に一生賭けて馬鹿貝食ふ   蛭田千尋

同時作に、

クレソンはいつも真つ赤な肉の上

がある。「馬鹿貝」の句は、四月の東京例会で高得点をとった特選句。平成十九年『河』七月号で、この句の先行する形の次の句を発表している。

薬の日馬鹿貝食べてゐたりけり   蛭田千尋

「薬の日」とは、五月五日、山野に出て薬草をとること。その日にとった薬はとくに効き目があるといわれた。蛭田千尋は荻窪の鮨商「金寿司」の女将である。そのことから、「馬鹿貝」が実に上手く使われている。「薬の日」の一句は、中七下五の「馬鹿貝食べてゐたりけり」がなんとも可笑しく、それでいて確かな景の見える佳吟。一方、「この人」とは、『河』の同人で主人の蛭田豊。上五中七の「この人に一生賭けて」の措辞に、爆笑した。これくらいのユーモアがあったほうが、句柄が大きくなるが、私が「この人」であるのは真っ平ごめん。

> 『河』作品抄批評一覧
海明や今日開店のピザ届く   巳亦和子

同時作に、

プランターの中にも夏の来たりけり

があり、この句の作者の柔らかな心を思った。一方、「海明」の句は、更に面白い。「海明」とは、一月下旬から三月下旬にかけて北海道に接岸していた流氷が沖に去り、出漁が可能になることを指すが、「海明」の季語を使った作品を読むのは私にとって初めてである。私は巳亦和子にピザを届けたイタリア料理店あるいはピザ専門店が、宮沢賢治の描く「注文の多い料理店」のような実在しないファンタジーに思える。つまり「虚」ということ。芭蕉の言う「虚にゐて実を行ふべし」である。子規・虚子以来、俳壇は「写実」と「写生」を俳句の根本の思想に置いた。しかも「写実=写生」という考え方で俳句に枷まで架けてしまった。本来、写実と写生はイコールではない。写実とは、いわばデッサンに過ぎず、それでは俳句は写真や映像の下に位置することになる。写生とは本来、「おのが生を写す」ことである。作者の人生を、いのちを、こころを写すことなのだ。わずか十七音の文字におのれの「いのち」と「たましい」を乗せて詠うことなのである。
ある時、森澄雄さんが私にこう語った。
「俳人は神仏を信じなくてもよいが、『虚』を信じなければ駄目だ。でないと巨きな世界が詠めない。今の俳人は最も大事な『虚』が詠めなくなった」
話を巳亦和子の句に戻すと、「海明」の季語に対して、中七下五の「今日開店のピザ届く」の措辞が実に新鮮。そして、日常の中の物語性に惹かれた。なによりも一句全体として、実に魅力のある作品に仕上がっている。

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春寒の少年時間買い足せる   愛知けん

同時作に、

鴉の巣飲めぬ話が椅子にある

があり、両句とも面白い。第二十五回角川春樹賞を受賞した鎌田俊の「竜天に」に次の一句がある。

ふらここや誰もたましひ買ひに来ず   鎌田 俊

その時の選考座談会の一部を抜粋すると、

増成 「ふらここや誰もたましひ買ひに来ず」というのは、ほとんど分かりにくい。

主宰 「ふらここや誰もたましひ買ひに来ず」、これは特選句です。これは何かと言いますと、寺山修司の世界なんだよ。この句が採れないと、この全体の「竜天に」は採れないんじゃないか。私は、この作品のなかでいちばんいい句はこれだと思っている。

大工町寺町米町仏町老母買う町あらずやつばめよ   寺山修司

という一連の短歌、ああいう世界だよ。これがこの作者の感性じゃないかという気がする。特選句三句のなかでも、この句がいちばん立ったね。

従来の俳句的見地に立てば、愛知けんの「春寒」の一句は、観念的の一言で葬り去られてきた。中七下五の「少年時間買い足せる」の措辞がほとんど分かりにくいということでだ。しかしそれは、単に選者の無知に過ぎない。愛知けんの背景にあるのは中国の故事である「少年老いやすく学成り難し」だ。学を成就させるためには、時間を買うしかない、と少年は考えたのであろう。愛知けんのこの句の眼目は、季語である「春寒」を少年に連結させたことだ。この句は「春寒の」で切るのではなく、あくまでも「春寒の少年」で切ることは誰でも解ること。では何故、「春寒」なのか。「春寒」は、この場合、少年の心理と現在の位置を示している。平成二十年『河』四月号の岡本勲子の、次の一句が参考となろう。

カーテンの向かう春寒にゐる少年   岡本勲子

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春泥の一本道を帰りけり   大多和伴彦

同時作に、

春泥や錆の味する抗鬱剤
花の日のつるりと嚥めしオブラート
落とされて鹿はおのれの角に遭ふ
たましひを花の汀に忘れけり

があり、全て四月の「はいとり紙句会」の吉野吟行の折の投句である。昨年十二月から二月まで続いたのだめぐみの句会第一位を、通称「のだめ祭」を阻止した作品群である。句会の折、大多和伴彦は次の投句をして、参加者全員を苦笑させた。

花の日やのだめ祭にさせまいぞ   大多和伴彦

春泥」「落し角」「花の日」は、「はいとり紙句会」の兼題である。「春泥の一本道を帰りけり」は特選、ほかは秀逸句で、この吉野吟行句会は、「伴彦祭」となった。
「春泥の一本道」の句は、獄中句集『檻』の次の一句をあぶり出させた。

裸木のいつぽん道となりにけり   角川春樹

私は他の囚徒と共に手錠をかけられ、縄で数珠ぎされて千葉の検察庁まで護送された。千葉南署の留置所から千葉市内までの一本の並木道は、すでに全て裸木になっていた。
大多和伴彦の「春泥の一本道」は、私の体験である裸木の一本道に通じている。「春泥」の季語も、全てを奪われた人間の哀しみである裸木と通い合う。そして、下五の「帰りけり」である。この帰りけりも、蕪村の一代の名吟である次の句と、檻から出たばかりの私の句とも重ってくる。

葱買うて枯木の中を帰りけり   蕪 村
獄を出て時雨の中を帰りけり   角川春樹

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少女らの赤いストローに夏立てり   浅井君枝

同時作に、

地下バーのグラスのチェリーに春逝かす

があり、この句も佳吟である。「夏立てり」の一句は、五月の東京中央支部の句会での特選句。読者はまずこの一句の立ち姿を眺めて貰いたい。一読して視界に飛び込み、一句がまなうらに焼きつくはずだ。しかも上五の「少女ら」と中七の「赤いストロー」が、実に鮮やかに連結しているではないか。そして下五の「夏立てり」だ。これ以上ないほど季語が一句に溶け込んでいる。つまり、季語が自己主張をしていないのだ。読者は「少女」「赤いストロー」にまず視線が行き、そして下五の「夏立てり」に納得する、という仕組みである。

> 『河』作品抄批評一覧
椅子にまだ温もりのある花の雨   上田郁代

同時作に、

ふらここやこの空席を埋めしもの
葉桜や最上階のワインバー

があり、「ふらここ」が良い。「花の雨」の一句は、上五中七の「椅子にまだ温もりのある」の措辞に感心した。誰にでも同じ体験を持ちながら、しかし誰一人として一句にしてこなかった作品。しかも、下五に「花の雨」を持ってきたのが手柄である。「時雨」であれば、全体が「暗」になってしまう。「梅雨」も同様。といって、若葉雨では明るさが出るものの、一句の艶が出てこない。
平成二十年『河』五月号では、次の一句を含めた『河』作品で、のだめぐみに続く第二位であったが、今月号では一位に躍り出た。

春愁やギターリストの細き指   上田郁代

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豆ごはん ずっと家族でいたかった   阿川マサコ

同時作に、

六月の子供の首にある泉

があり、中七下五の「子供の首にある泉」という阿川マサコの視点が良い。一方、「豆ごはん」の句は、四月の東京中央支部の句会で私が特選にとった。
「豆ごはん」は、家族団欒の象徴である。それに対して、中七下五の「ずっと家族でいたかった」は反語である。文字通りに読めば、もはや家族が崩壊してしまった、ということだ。だが、この句も「詩の真実」であって、「実」と考える必要はない。日常の中のドラマトゥルギーである。時実新子の「川柳大学」で人間諷詠を身に付けた阿川マサコの佳吟である。阿川マサコも上田郁代同様に、本年度『河』五月号に次の句を含む『河』作品で七位に進出し、今月号で第二位となった。

死に近き人と牛乳飲んでゐる   阿川マサコ

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食器棚の中に立夏の朝が来る   大友麻楠

同時作に、

晩春や赤いタオルが垂れる窓

があり、この句は四月の東京例会で私が特選にとった。中七下五の「赤いタオルが垂れる窓」の措辞が鮮烈である。一方、「立夏」の句は、五月の東京中央支部の句会で私は秀逸にとったが、「立夏」の句のほうが「晩春」の句よりも、更に新鮮であり、上五中七の「食器棚の中に」立夏を見出した手柄を私は買う。しかも、中七下五の「立夏の朝が来る」の措辞が上手い。つまり、立夏だけでも面白いのに、更に朝を持ってきたところで清々しい一句となった。平成十八年『河』十月号の、鎌田俊の次の句と並べて鑑賞して欲しい。

冷蔵庫の中にあたらしき夜が来る   鎌田 俊

※この号の本文は、讀賣新聞の連載と角川春樹主宰の『河』5月号に掲載したものから加筆再構成したものです。
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