魂の一行詩
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2008年7月号「月刊ランティエ。」掲載分  | メール一行詩 | 『河』作品抄批評 |
今月のアドバイス

抒情とは感動である

「魂の一行詩」とは、日本文化の根源にある、「いのち」と「たましひ」を詠う現代抒情詩である。

この宣言を行ってから三年が経った。現代の抒情詩ということについて、私が主宰をしている『河』の中でも、なにが抒情詩であるのか、なかなか理解されないことの一つである。ある時、「河の広場」に次の一文があったので、以下はその引用である。

実は以前から、分かったようで今ひとつ意味が体に入ってなかったことに、「抒情」がありました。でも主宰の書かれた『「いのち」の思想』を、しばらくぶりに開いてみると、答えがありました。

「抒情とは、観念ではない。只事ではない。何の学問にも影響されなかった万葉集の防人の歌は、日本人の血の中に埋蔵されてきた抒情性だ。誰が詠んでも、読んでも感動がある。抒情とは感動そのものである」

主宰の言葉は、簡潔でした。人は、誰でも同じような心をもって、人生を生きているのです。防人だって、サラリーマンだって、若者も老人も……。心は同じです。

「ランティエ」メール一行詩
ランティエにはメールや葉書で一行詩が多数よせられています。それらすべてに角川春樹が目を通し、選び、批評した作品群をここに掲載します。
特 選
ふらここや私はわたしの遺失物 伊藤実那
実那さんの涼しき白き夏帽子 島 政大
うしろよりだきしめられし花の闇 曽根新五郎
だってあんたはどんな川にも流されない 小林瑠花
山崎の湧き水含む利休の忌 田中雅博
春昼の回転寿司の憂鬱かな 遠藤 稔
ふらここや私はわたしの遺失物   伊藤実那

同時作に、

主役にはなれずに啜る浅蜊汁

がある。「ふらここ」とは、ブランコのことで、春の季語。作者の現在地を表す象徴である。図らずも「浅蜊汁」の一句が彼女の心境を吐露している。古代ギリシア哲学は「二人の自分」を前提にしている。「私」という「自我」は、「わたし」という「魂」の遺失物だ、ということである。ブランコに揺れるのは、作者の肉体ではなく、心なのだ。

> メール一行詩「特選」一覧
実那さんの涼しき白き夏帽子   島 政大

同時作に、

春昼やいずれの道も西へ行く
四月といふ空に真白き飛行船

があり、作品としては「春昼」の句が一番良いが、「夏帽子」の句に触れたい。固有名詞である「実那さん」を、読み手は誰だか知らなくてもよい。その人物が夏帽子の似合う女性であることを、読者は充分に想像できるからである。初夏らしい健康的なエロスの一行詩。

> メール一行詩「特選」一覧
うしろよりだきしめられし花の闇   曽根新五郎

同時作に、

なにもかも忘れてゐたる葱坊主
空部屋にまだ三月のカレンダー

がある。島政大氏の作品に較べると、「花の闇」の一句は濃厚なエロスだ。「実」でも「虚」でも構わない。大事なのは「詩の真実」であることだ。「恋」や「愛欲」が十七音字の有季定型に詠める詩人こそ、一流の人と言っていい。

> メール一行詩「特選」一覧
だってあんたはどんな川にも流されない   小林瑠花

これはまたダイレクトな「恋」の句。或いは応援句と取るべきか。どんな川にも流されない男子とは見上げたものだ。作者は十四歳。

> メール一行詩「特選」一覧
山崎の湧き水含む利休の忌   田中雅博

作者は吉祥寺のバー「WODDY」のマスター。上五中七が上手く下五の「利休の忌」に接続しているが、山崎とくれば、日本のウィスキー発祥の地。なるほど。

> メール一行詩「特選」一覧
春昼の回転寿司の憂鬱かな   遠藤 稔

同時作に、

鶯や浮世なかなか捨てられず

があり、作者の憂鬱がどこから起因しているかが「鶯」の一句で憶測できるというもの。春昼の回転寿司に憂鬱を感じるという感性は詩人特有のもの。この句、取り合わせの「妙」と言うべし。

> メール一行詩「特選」一覧
秀 逸
腐っても消せぬ孤独を持つ獣 橋本知保
花曇子規庵すでに戸を閉ざす 松田浩昭
冬の海人魚の歌ふレクイエム 八木正幸
にんげんを破門されたい春満開 村上 洋
メランコリー4月が唄ふ雨の歌 古賀由美子
魂も戦争も無い春の街 山崎寿也
桃色の吹雪の中を入学式 赤澤雄一
花夕焼わが人生はみな遠し 秦 孝浩
チューリップ自分のために咲く真昼 愛甲知子
トリガーを引くよな詩が欲し夜半の春 大谷元秀
枕木に染み付く千の獏の糞 新居上実
呼んでいた、そこはただの廃墟です 伊藤綾夏
青蛙小さき眼に星座あり 永島 証
ポケットに海の響きよさくら貝 野中正一
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『河』作品抄批評
菜の花や好きなのはやつぱり笑顔 小川江実
彼方へと歩きはじめる朧の木 野田久美子
さしものと染め抜いてあり遅桜 滝口美智子
春雨や銀座の花を買うてより 小島 健
荷風忌や薔薇いつぽんの予約席 大森理恵
花夕焼この世にとどまるもののなし 松下由美
花ふぶき武は美しきちからなり 小林政秋
花の雨走つて走つて逝つてしまつた 斎藤隆顕
亀鳴くや含み笑ひの甘納豆 丸亀敏邦
一椀の貝のすましや鳥帰る 佐藤佐登子
夕暮れの花散る海に逝きにけり のだめぐみ
花散るや夕日に白きベビー靴 大友麻楠
けふのことすでにかげろひゐたりけり 玉井玲子
夕ざくらこの世のほかに椅子がない 竹本 悠
菜の花や好きなのはやつぱり笑顔   小川江実

同時作に、

雛飾る昭和丸ごと生きしかな

があり、作者の年輪を感じさせる佳吟。「菜の花」の一句は、滝口美智子の次の一句と共に、『銀河集』の作品の中で最高得点4をとった。

さしものと染め抜いてあり遅桜   滝口美智子

「菜の花」の例句の中で、これほど魅力的な作品はない。作品は作者から離れて鑑賞するのが常道だが、時に、作者と作品があまりにも合致しているケースがある。「菜の花」の一句が、それだ。中七下五の「好きなのはやつぱり笑顔」の措辞が抜群に良い。小川江実の笑顔はとても素敵だが、この句の場合、第三者の笑顔が好きだと言っている。笑顔の素晴らしい人物は、子供なのか、大人なのか、少年なのか少女なのかも示されていない。読み手のイマジネーションに作品は委ねられている。一読、二読、三読する内にこの句から離れ難い感動が湧きあがってくる。

三月の東京例会に私が投句した次の作品は、秀逸1佳作4と、当日あまり評価されなかったが、『河』五月号に山田絹子が一文を載せているので引用する。

雨降つてやさしい春となりにけり   春樹

この作品は春樹主宰から特別に「この句は、無技巧、無作為、無内容のものであるが、このようにごく自然体の作品も大事と思い出句してみた」と注釈がありました。

あまりにシンプルで単純なので、私は選ぶことができなかったのでしたが、句会後、何日か経ってふとノートに記したこの句を眺め、「あれっ」と感嘆の声をあげました。心に降る慈雨のように、淋しい私の心情に、それはあふれるばかりのやさしさで迫ってきました。私を包む春風のように。

小川江実の「菜の花」の一句は、私の「やさしい春」と同様に、無技巧、無作為、無内容の作品である。手垢のついた作品や鑑賞ではなく、無垢の心で一句を創り、鑑賞することが大事なのである。父・源義は技巧を主張する輩に「魂の作物」は生まれないと看破した。画家で小説家の池田満寿夫に次の一文がある。

俳句とは発見である。いや俳句とは発見されるためにあるのだ。「古池や蛙飛こむ水の音」これは芭蕉の発見である。何故これが今日まで残っているのか。時代を超えて常にこの句が発見されてきたからである。

小川江実の「菜の花」の一句は、私が発見し、『河』の読者が発見し、多くの人々に発見して欲しい作品。

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彼方へと歩きはじめる朧の木   野田久美子

同時作に、

恋猫の月の裏側見て戻る
蛇穴を出でて廃墟の塔ひとつ

があり、「朧の木」の世界が何となく理解できる。かつては人間でさえ見ることのできなかった月の裏側を恋猫が見てもどったり、バベルの塔のような廃墟の塔を穴を出た蛇が眺める世界である。勿論、猫も蛇も擬人化である。とすれば、「朧の木」も、擬人化としての存在である。彼方へと歩きはじめるのは、人間であるが、人間では辿り着けない銀河の果てまでも、「朧の木」は未知の世界に向って歩き始める。「朧」は、現実と異世界のあいまいな世界を表現している。平成十八年『河』十一月号に、野田久美子は次の一句を発表している。

穴惑遠くまぶしい水がある   野田久美子

その時の私の鑑賞文を抽いてみる。

野田久美子の作品「穴惑」は、作者自身である。「遠くまぶしい水」は、作者の過去ともとれるし、未来に対する願望とも考えられる。「まぶしい水」は、永遠に手に入れることのできない逃げ水であり、しかも目に見えるがゆえに、冬眠を拒み、この世に執着する蛇は、さまざまな「惑い」を抱えている。「穴惑」の一句は、象徴詩として秀吟。

私の鑑賞文は、今回の「朧の木」にも当て嵌まる。つまり、未来に対する願望である。野田久美子の「朧の木」の一句は、「穴惑」と同様の幻想的な象徴詩として捉えるべきだろう。

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さしものと染め抜いてあり遅桜   滝口美智子

四月の東京例会で特選3佳作1総合得点10をあげた作品だが、今月の『銀河集』の中で小川江実の次の句と並ぶ秀吟。

菜の花や好きなのはやつぱり笑顔   小川江実

「遅桜」の例句としては、次の作品がある。

一もとの姥子の宿の遅桜   富安風生
遅ざくら朝日優しく上りけり   草間時彦
遅桜北指す道の海に添ひ   野澤節子
遅桜河口に雨のつづきをり   宇多喜代子

があり、特に富安風生の句が代表作。また富安風生以外の作品は自然詠。風生作品の良さは、人間の営みを登場させたことで人肌の温もりのある作品。その中には、懐かしいという感情も含まれる。滝口美智子の「遅桜」も、同様である。上五中七の「さしものと染め抜いてあり」の措辞が、どこか下町の懐かしい温もりを表現して余すところがない。しかし、この句の手柄は、その懐かしい景に季語の「遅桜」を持ってきたことだ。これを「季語の恩寵」と言う。季語に甘えた作品には、このような感動は伝わらない。俳句歳時記のどの例句にも遜色のない名吟である。

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春雨や銀座の花を買うてより   小島 健

小島健の「春雨」の一句は、一見、変哲もない平凡な作品に見えるかもしれない。今月の『銀河集』の作品を眺めても、手の込んだ理知的な句が目立つ。しかし、「春雨」には、全くそれがない。陶芸家の北大路魯山人は、志野、織部、備前によるものが得意であったが、彼に次の名言がある。

 贋物と本物は紙一重である。その真贋を見抜く鑑賞者の目で決まる。

父・源義は秀れた鑑賞者で、所持している骨董品の数々は全て本物であった。骨董屋の持ち込む作品を、一週間眺めて飽きない物だけを購入した。飽きない作品は、たとえ贋作であったとしても、本物を超えると考えたからである。源義の骨董品に対する解釈も、北大路魯山人の陶芸に対する発言も、極めて重大だ。真の鑑賞者だけが、その作品の魅力を発見するからである。このことは、小島健の「春雨」の一句にも言える。つまり、飽きない作品ということだ。そして、この句の良さは、すでに何度も作品批評で触れたが、季語が自己主張しない「季語の純化」「純粋季語」としての「春雨」にある。

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荷風忌や薔薇いつぽんの予約席   大森理恵

「荷風忌」は、四月三十日、小説家・随筆家の永井荷風の忌日。例句としては、

荷風忌や精養軒のオムライス   佐藤紫城
荷風忌の踊り子がガムをむ楽屋   伊藤黄雀

があり、二句とも永井荷風の自画像が浮かびあがる佳吟。四月の吉野で行われた「はいとり紙句会」の詠み込みは「レストラン」だった。私は次の作品を投句した。

ティファニーの角で人待つ春の雨   春樹

ティファニーはトルーマン・カポーティの小説で、オードリィ・ヘップバーンが主演した映画「ティファニーで朝食を」から、宝石店をレストランになぞらえた。
しかし、投句しなかった次の一句がある。

荷風なきアリゾナにゐて春惜しむ   春樹

アリゾナは荷風の愛した浅草の洋食屋だが、むしろレストランの名というより、アメリカのアリゾナ州をイメージされたほうが面白いと考えた。が、結局、投句しなかったが愛着のある一句。季語の「春惜しむ」は、荷風忌の四月三十日を意識した。大森理恵の「荷風忌」も、レストランの存在が隠されている。中七下五の「薔薇いつぽんの予約席」の措辞が上手い。これで景がパッと明るくなり、読み手のイメージが拡大されるからである。第一回日本一行詩大賞受賞者の佳吟。

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花夕焼この世にとどまるもののなし   松下由美

同時作に、

ノブのない二月のドアがそこにある
ハンガーに鳴かない亀を吊るしけり
淋しさや四月の雨の動物園
象のゐる街に来てをり春の虹

があり、全て佳吟である。また、五句の投句で総合15点を『河』で四ヶ月連続してとったのは初めてである。「四月の雨」「春の虹」は、四月に行われた井の頭自然文化園での吟行句。「二月のドア」は、私の獄中句集『海鼠の日』の次の一句から、イメージしたものと思われる。

年ゆくや獄に取つ手のない扉   春樹

「鳴かない亀」は、三月の「はちまん句会」の兼題「亀鳴く」を逆手にとったユーモア句で、松下由美に今まで見られなかった「笑い」や「滑稽」を意図した作品。
「花夕焼」は、今月の『半獣神』の中で、佐藤佐登子の次の作品と共に最高得点4を獲得した。

一椀の貝のすましや鳥帰る   佐藤佐登子

季語の「花夕焼」は、平成十九年『河』六月号の燗c自然の次の一句からとった。

花夕焼あしたへ続く吾の今   燗c自然

「花夕焼」という措辞の発見は、従来の「夕ざくら」という手垢のついた言葉を使ってきた私にとって、実に新鮮。私の造語である「花時雨」に匹敵する新季語と言ってよい。
今年の春、「花夕焼」の季語を用いて何句か試みた。

花夕焼今を生きるといふ言葉   春樹
花夕焼詩歌は常に寂しかり   同

松下由美の「花夕焼」は、西方浄土をイメージした作品。それが、中七下五の「この世にとどまるもののなし」の措辞を導きだした。私の「花夕焼」を上回る秀吟。

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花ふぶき武は美しきちからなり   小林政秋

同時作に、

幸福な家族の食卓さくら散る
手のひらに明るき春の愁ひあり
春昼の居間にひとつの湯呑あり
母の為す父へ化粧や櫻ちる

があり、作品を読む限りは父親の死を悼む連作で全て佳吟。松下由美に続いて総合15点を獲得した。特に、「春愁」と「春昼」の作品は悲しみに流されることなく、「明」に転換させたことで成功した。

一方、「花ふぶき」の一句は、父の死の連作から離れて、私の武道を詠んだ作品。「武は美しくあらねばならない」というのが私の持論である。日本の敗戦後、日本の武士道をテーマにしたベネディクトの『菊と刀』が大ベスト・セラーとなった。ベネディクトはアメリカの女性文化人類学者で、日米戦争が不可避であった時期に、アメリカ政府の依頼で日本研究の一環として同書を著した。それに対して小林政秋は、武士道を「花と刀」に見出した。四月の東京中央支部の句会で最高得点をとった作品である。

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花の雨走つて走つて逝つてしまつた   斎藤隆顕

同時作に、

振り袖のカタログ届く万愚節

がある。「花の雨」の句は、詞書のないものの三月十四日に行われた「秋山巳之流さんをしのぶ会」を前提として詠まれた悼句。今月の『半獣神』の中で次の句と共に最高得点4を獲得した秀吟。

花夕焼この世にとどまるもののなし   松下由美
一椀の貝のすましや鳥帰る   佐藤佐登子

「花の雨」の一句は、秋山巳之流の代表作である次の句を念頭において詠まれた。

走る走る走るラグビーの男   秋山巳之流

勿論、斎藤隆顕の「花の雨」は、秋山巳之流のことと限定する必要はない。その上、逝ってしまった人物が男とは限らない。しかし、俳句が男の文芸と考える以上、走って走って逝ってしまったのは、やはり男と考えるべきだ。秋山を偲ぶ当日は、開花直前の豪雨だった。走って走って逝ってしまった漢に上五の「花の雨」は、これ以上はないと思える季語だ。そして、この句の季語として「いのち」が宿っている。全力疾走で生を全うした全ての男たちへのレクイエム。

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亀鳴くや含み笑ひの甘納豆   丸亀敏邦

同時作に、

花いかだ追うてゆく水ありにけり

があり、一句としては「花いかだ」のほうが上等かもしれないが、今回は「亀鳴く」のユーモア句を取りあげることにする。「亀鳴く」の背景は、坪内稔典の代表作となっている次の一句である。

三月の甘納豆のうふふふふ   坪内稔典

稔典の上五の季語「三月」と中七下五の「甘納豆のうふふふふ」とはなんの関係性もない。一方、丸亀敏邦の「亀鳴く」は、稔典の句を踏まえた上でユーモア句として成立させてしまった。このような本歌取りは、古代より詩歌の世界で許容されてきた。問題は、本歌を超えたかどうかにかかってくる。稔典の虚の世界を借りて、ユーモア句に転換させたのが、この句の手柄である。またそのことは、知識と教養をベースにして笑いのめす談林俳諧の伝統でもある。

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一椀の貝のすましや鳥帰る   佐藤佐登子

同時作に、

職退きて花見の靴を磨きをり

があり、この句も佳吟。「鳥帰る」の一句は、三月の東京例会の投句で、選者の山口奉子と私だけが特選にとった佐藤佐登子の一代の名吟である。今月の『半獣神』の中で、次の句と共に最高得点4をとった。

花夕焼この世にとどまるもののなし   松下由美
花の雨走つて走つて逝つてしまつた   斎藤隆

上五中七の「一椀の貝のすまし」とは、蛤の潮汁であろう。例句としては、

南に海蛤のすまし汁   大野林火

がある。佐藤佐登子には角川春樹編の『現代俳句歳時記』にも収録された次の名吟がある。

顔見世にかなふ寒さとなりにけり   佐藤佐登子

十年前の東京例会で「顔見世」の句を発見した時の感動は、今でも鮮やかに思い出すことができる。その後も、私が『河』の主宰になった平成十八年十月の東京例会では、

杜氏来る赤き手編みのチョッキ着て   佐藤佐登子

があり、東京中央支部の十二月の句会では、

つるし柿粉吹く夜祭来たりけり   佐藤佐登子

の秀吟がある。しかし今回の「鳥帰る」は、「顔見世」以来の作品である。まず、映像が飛び込んでくる。白濁した潮汁に箸をつけると、季節からいって鳥の帰る頃だなあ、という作者の感懐が伝わってくる。一句全体が春の季感に満ち、空気の匂いさえしてくるではないか。しかも、季語が少しも威張っていない。季語の「鳥帰る」が一行詩の中に絵のように納っている。俳句は発見されなければならない。発見されることによって、文学史に残ってゆくのだ。主宰の役割といえば、最初の発見者となり、その鑑賞文を書くことだ。勿論、作品の真贋を見抜く主宰者の審美眼があってのことだが………。

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夕暮れの花散る海に逝きにけり   のだめぐみ

同時作に、

地下鉄のホームに角の落ちてゐる
春雨やいつかどこかのこゑがする
四月八日傷ついて開くドアがある

があり、全て四月の吉野山で行われた「はいとり紙句会」の作品である。兼題は「花」「落し角」「春泥」「四月八日の仏生会、虚子忌」であった。当日、私が特選にとったのは、次の四句である。

春泥やあの日渡したチョコレート   平岡 瞳
夕暮れの花散る海に逝きにけり   のだめぐみ
春泥の一本道を帰りけり   大多和伴彦
灌仏や母とはさういうものですか   佐藤和歌子

中でも、「花散る海」の一句には、「四月七日、戦艦大和水上特攻」の詞書があり、当日の特選5佳作1の総合得点16を獲得した。しかし、出句にあたって詞書は不要と考えたらしい。勿論、詞書のないほうが大和に限らず、水上特攻の犠牲者全員の鎮魂となろう。六十二年前の四月六日、まだ桜の莟の時期に沖縄に向かった大和以下の艦団は、四月七日、アメリカの戦闘機によって撃滅された。救助された乗組員が佐世保港に辿り着いた時、満開の桜を見て発狂した兵士もいたという。のだめぐみの一句は、そのドラマを余すところなく、僅か十七音の一行詩に言い止めた。

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花散るや夕日に白きベビー靴   大友麻楠

同時作に、

鍵穴に合ふ鍵探し春の暮
沿線の空が真つ赤に聖金曜日

がある。「聖金曜日」は、キリストの受難と十字架上の死去を記念する日で、例句としては、

聖金曜のオルガン低し辛夷の芽   古賀まり子

があるが、季語としては一般的ではない。古賀まり子の句はキリスト教の行事に即しているが、大友麻楠の場合は日常の中のドラマトゥルギーに視線を移した。また「春の暮」「花散る」の二句は、四月の中央支部の句会で特選をとった。「春の暮」の一句は、作者の心理を具象化してみせたが、発想としては必ずしも新しいとは言えない。しかし「花散る」の一句は、景も鮮やかで中七下五の「夕日に白きベビー靴」の措辞が良い。そして、この句も日常の中の細やかなドラマに目を付けて成功した。しかも、花が散るという古典的な季語に対して、「夕日に白きベビー靴」の取り合わせが見事。

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けふのことすでにかげろひゐたりけり   玉井玲子

同時作に、

花種にこぼる重さのありにけり

があるが、「かげろふ」の句は遥かに良い。今月の『河』作品の中で唯一の最高得点4をとった。玉井玲子の「かげろふ」の句を眺めていたら、私の次の二句が頭に浮かんできた。

昨日より今日を杳かに洗鯉   春樹
おぼろなるもののひとつにおのれかな   同

ある日、ある時、昨日と言わず今日を遠いと感じる時がある。いち日が終ろうとする時、今日のことがすでにおぼろになったり、陽炎のように思えることがある。玉井玲子の作品は、詠み手と読み手の心が共振れを起す心にしみる秀吟である。

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夕ざくらこの世のほかに椅子がない   竹本 悠

竹本悠の「夕ざくら」の一句は、四月の東京例会で特選1秀逸2佳作4の総合点11を獲得した。平成二十年五月に刊行された福島勲の一行詩集『憑神』に次の二句があり、竹本悠の「夕ざくら」の参考となるので、ここにあげる。

後生などあるべくもなく髪洗ふ   福島 勲
人日や見えるものしか見たくなし   同

もう一つ、私の次の一句と比較してほしい。

湯豆腐やこの世のほかの世を想ふ   春樹

竹本悠の「夕ざくら」の句も、福島勲の「髪洗ふ」も、この世の他に自分の居場所がないと言い切ったところが爽やかだ。私自身は、輪廻転生も霊界の存在も実在することを承知しているが、それによって現実の自分が振り回されることは真っ平だ。むしろ、いっそう来世を信じることなく、現世を精一杯生きることのほうが遥かに健康で清々しい。この世で幸せでない者が、あの世で幸せになることなど絶対にあり得ない。竹本悠の句の中七下五の「この世のほかに椅子がない」の措辞は、作者の感懐として潔い。そして、それもこれも上五の「夕ざくら」という季語の「いのち」にかかっている。私がたびたび『河』衆に自分のいのちを乗せて一行詩を詠えと言っているが、竹本悠の「夕ざくら」の句も、その好例のひとつと言ってよい。

※この号の本文は、讀賣新聞の連載と角川春樹主宰の『河』5月号に掲載したものから加筆再構成したものです。
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