魂の一行詩
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2008年6月号「月刊ランティエ。」掲載分  | メール一行詩 | 『河』作品抄批評 |
今月のアドバイス

師弟の歓を尽してこそ

昨年十一月七日、俳人の秋山巳之流が癌で亡くなった。彼の生前には読まなかった句集『うたげ』のあとがきの、次の一文に感銘を受けた。

この夏、しきりに「志」ということを心に思っています。タテに腹を魔羅の根元まで大きく斬って、四キロほど内臓を摘出し、ようやく生き延びたせいでしょうか。「志」とは、もののふのものだったようです。武士の士の心です。
芭蕉はんも手紙の中で、「武士」と書いて、「もののふ」と読ませているほどです。
〈結社〉は主宰、そして会員という時代になってしまいました。しかし、〈結社〉とは、あくまでも師と弟子なのです。
「志」ある師と、同じく「志」をもった弟子の集まりが、〈結社〉でしょう。それでこそ、師弟の歓を尽すことができるのです。師弟の歓を尽して後、俳句とは何か、人生とは何かも識ることができるのです。わたくしはそのようなことが判れば、俳句は歓を尽すのみだ、と思うようになりました。

湯豆腐や漢は歓を尽すべし   角川春樹

「ランティエ」メール一行詩
ランティエにはメールや葉書で一行詩が多数よせられています。それらすべてに角川春樹が目を通し、選び、批評した作品群をここに掲載します。
特 選
一冊の本をひらきし春の風 曽根新五郎
春がありロングピースに火をつけて 田中雅博
黄砂舞ふキラー通りの絹の店 秦 孝浩
啓蟄や墓地売出しのアドバルーン 遠藤 稔
占いや今日はさみしき日だといふ 島 政大
一冊の本をひらきし春の風   曽根新五郎

同時作に、

石となるつもりの亀の日永かな

があり、この句も良い。「春の風」の句は、単純で平明で判りやすい。まるで子供の作品のようだが、飽きることがなく、時間が経つにつれ浮かび上がってくる作品。

> メール一行詩「特選」一覧
春がありロングピースに火をつけて   田中雅博

同時作に、

チョコレートひと粒かじり風光る

がある。「春があり」の句も、何か気の効いた台詞のような句ではない。しかし、しみじみと「ロングピースに火をつけて」の措辞が心にしみこんでくる。正に「春があり」だ。

> メール一行詩「特選」一覧
黄砂舞ふキラー通りの絹の店   秦 孝浩

同時作に、

春一番ふりむくほどの過去も無く

があり、この句も佳吟。今年の春は例年になく黄砂が降った。中七下五の「キラー通りの絹の店」は、単なる報告ではない。映像の復元力が効き、自己の投影もさりげなく一句の中に果されている。

> メール一行詩「特選」一覧
啓蟄や墓地売出しのアドバルーン   遠藤 稔

「啓蟄」とは、三月六日ごろ冬眠していた虫が穴から出てくること。中七下五の「墓地売出しのアドバルーン」は、生きとし生けるものと死者の居場所の売出しとを、ユーモアとアイロニーを込めて詠った佳吟。

> メール一行詩「特選」一覧
占いや今日はさみしき日だといふ   島 政大

昨今の占いブームは、二兆円の産業だという。中七下五の「今日はさみしき日だといふ」の措辞が巧みだ。そしてアイロニーの底辺にペーソスが流れている。

> メール一行詩「特選」一覧
秀 逸
春浅し診療室の尾てい骨 宮内香宝
春光や通勤電車は地下へ向かふ 永島 証
地位測る目安にするな腹まわり 赤澤雄一
仮の世に貸しを残して海の色 村上 洋
スクランブルエッグになった私の老後 古賀由美子
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『河』作品抄批評
蕗の花紙飛行機が越えてゆく e原悠貴
珈琲館に青き絵の在り春の雨 酒井裕子
地下鉄へ入る春愁のギタリスト 渡辺二三雄
蕗のたう堂々と老いたまひけり 滝口美智子
かげろふの中を父来て帰りけり 松下由美
バレンタインデー少し残業して帰る 松永富士見
貝寄風の砂の城よりオルゴール 川越さくらこ
菜の花や明日はく靴の見つからず 西川輝美
誰にも会はず復活祭の水を飲む 若宮和代
謝罪会見倦みたる亀の鳴きにけり 石橋 翠
薄氷を雲のごとくに跨ぎけり 丸亀敏邦
白魚のひれのさらなる白さかな 青木まさ子
凍鶴とならねば見へぬ星もあり 前原絢子
扉を開けて帰る場所なき弥生尽 のだめぐみ
春愁やギターリストの細き指 上田郁代
二月この一つ外せば積木崩し 佐藤聡美
CDのタンゴに変り雛の夜 竹本 悠
早春やフィルムのないライカ持つ 伊藤実那
死に近き人と牛乳飲んでゐる 阿川マサ子
春浅しものの果てなる瀬のひかり 平岡 瞳
蕗の花紙飛行機が越えてゆく   e原悠貴

「春の虹」と題する同時作に、

早春の鍵穴から夜がするする
泣きやめば沖に大きな春の虹

がある。特に「早春の鍵穴」が良い。下五の「夜がするする」の表現が巧みだ。「蕗の花」は、二月の「しゃん句会」の兼題。当日の投句で印象に残ったのは、次の作品。

蕗の薹朝日まつすぐ差しにけり   松下千代
エプロンは白と決めをり蕗の薹   若宮和代
ふきのたう大風の日となりにけり   堀本裕樹
夕暮れはいつもひとりの蕗の薹   岡田 滋
約束を守れずにをり蕗の薹   西村直恵

私の当日の投句は、「福島勲氏へ」という詞書がある次の一句。

風狂のいのち惜しめよ蕗の薹   角川春樹

蕗の薹は、早春、雪解けを待ちかねたように、萌黄色の花穂を土中より出す。摘んで食べるとほろ苦い風味があるが、味噌にすり入れたり、てんぷらなどにして春の食卓を飾る。代表的な例句は、

蕗の薹食べる空気を汚さずに   細見綾子
襲ねたる紫解かず蕗の薹   後藤夜半
蕗の薹おもひおもひに夕汽笛   中村汀女
ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう   赤尾兜子
笑ひ声ころげて蕗のたう覚ます   角川照子

がある。e原悠貴の句は、例句を眺めても、全く類想のない作品。早春の野原に紙飛行機を飛ばす少年の姿が、ありありと見える。模型飛行機を素材とした松下千代の平成十八年『河』十二月号の次の作品と並ぶ秀吟。

秋天に模型飛行機落ちにけり   松下千代

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珈琲館に青き絵の在り春の雨   酒井裕子

「罔象女」と題する同時作に、

春の雪郷社の神は罔象女
涅槃図の猫と鼠の睦みけり

がある。罔象女は闇と共に、水の神である。また、涅槃図にはいない猫が鼠と睦み合っている句には、ほのぼのとしたユーモアがある。

一方、「春の雨」の句は、三月の東京例会で、次の二句と共に特選をとった作品。

白魚のひれのさらなる白さかな   青木まさ子
一椀の貝のすましや鳥帰る   佐藤佐登子

三句とも秀吟である。酒井裕子の「春の雨」の句は、私がとった特選以外は、並選が3だけであった。しかしながら、この句、明るく暖い春の雨に対して、珈琲館の青い絵は、不思議なほど暗い。作者は珈琲館の椅子に座りながら、正面の青い絵を見詰めている。外は雨だ。「明」と「暗」。「内」と「外」。そして、句には登場しない作者の現在地である椅子。「在り」は「あり」を強調する為に選択された語彙。全てが印象鮮明な一句。「青い絵の存在」で日常のドラマ性のある作品となった。

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地下鉄へ入る春愁のギタリスト   渡辺二三雄

「春愁」の例句として、代表的な作品をまず並べてみる。

春愁や葉がちとなりし花の雨   日野草城
うすうすとわが春愁に飢もあり   能村登四郎
春愁の渡れば長き葛西橋   結城昌治

以上の句は、「春愁」を使って成功した作品だが、渡辺二三雄の作品と比較すると魅力がない。私の感想を卒直に言えば、「それは確かにそうだろう」で終ってしまう。つまり、一句の中のドラマ性が稀薄なのだ。別に、渡辺二三雄の作品を実景と取る必要はない。どの例句を眺めても、現代の抒情詩とは言えないではないか。「春愁」の一句は最高得点4を獲得した渡辺二三雄の傑作と言ってよい。

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蕗のたう堂々と老いたまひけり   滝口美智子

「卒業証書」と題する同時作に、

ウェストミンスターチャイム菜の花に埋もれ
三月十日ぢんちやうげ匂ふ

がある。三月十日は東京大空襲の日。私はこの日の正に火の海となった東京を見ている。だが、滝口美智子は、歴史的事実の日の実景を詠んだまでである。しかし、そのことは「詩の真実」とは関係なく、両句とも映像の復元力の効いた作品。「蕗のたう」は、父親に対するオマージュである。滝口美智子には次の代表句がある。

父一人かげろふを喰みこぼしをり

滝口美智子一代の名吟と言ってよい右の句は、切ない。「かげろふを喰みこぼす」という父と、今回の「蕗のたう」の父と比較すると同一人物とは到底思えない。前者は壊れゆく父であり、後者は矍鑠たる存在である。しかし、「詩の真実」としては、どちらでもよい。中七下五の「堂々と老いたまひけり」は、手放しの父親讃歌であり、詠み手と読み手が共振れを起す一行詩の佳吟。

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かげろふの中を父来て帰りけり   松下由美

同時作に、

ゆく年といふ一枚の絵をがす
一月一日私の席はありますか
きさらぎや宅急便の水の箱
象のゐる街に来てをり春の虹

があり、全て佳吟である。また、五句の投句で総合15を『河』で三ヶ月続けてとったのは初めてである。松下由美の特徴は、一句の物語性にある。「ゆく年」「春の虹」「一月一日」「かげろふ」は、正にそれを裏付けているが、「きさらぎ」の句には、それがない。しかし、私はこの句に一番惹かれる。フランス現代文学のアンチ・ロマンの手法である。存在するのは、宅急便で届けられたペットボトルの水である。なんの物語性もない。しかし、早春の二月の透明な空気が、ペットボトルの水にも及んでいる。冷い水は光沢を放っている。水それ自体は無意識である。しかし、瑪瑙、水晶、翡翠に閉じ込められた水は、意識を持ち、古来、神社の御神体、お守り、家宝として大切にされてきた。水は器を持つことで、意識を持ち、人間に働きかける。物が単なる物でなくなり、物自体が語りかけてくる。「水のような一行詩」と私が言うのは、無意識、無技巧でありながら、その透明な一行詩は時間が経つにつれて光を放ち始める。

松下由美の「きさらぎ」の一句が、水のような一行詩というわけではない。即物的に水の箱があるだけだ。この句の良さは、むしろ乾いた現代の抒情詩であることだ。

一方、「かげろふ」の句は、松下由美のモチーフである「幻の父」である。第二十八回角川春樹賞を受賞した折の、松下由美の「受賞のことば」に、幻の父が語られている。

蝉の声がしはじめると、想いは京都の空に飛ぶ。時刻は覚えていないが、それは確かに夏の盛り。見知らぬ家の布団に伏した人の顔を、幼い私は母と少し離れたところでじっと見つめていた。それが父だったと、後に聞かされたが、私には父の記憶がない。ただ臨終寸前のその光景が、不思議な瞬間として、心に刻まれている。父を知らない私は、「父」という感覚が欠落したまま、混沌とした憧れを持ち続けた。あれから四十年余りが過ぎた。そして私は再び「父」に会った。実体ではなく「魂の一行詩」という「魂の父」である。

この稿を書きながら、どうしても滝口美智子の今月号の父の句と、美智子の次の代表作が頭に浮かび、消えようとしない。

蕗のたう堂々と老いたまひけり   滝口美智子
父一人かげろふを喰みこぼしをり   同

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バレンタインデー少し残業して帰る   松永富士見

同時作に、

落款のごとき椿よ東慶寺
風光る少女の胸の貝釦
囀りや電子レンジが回り出す

があり、二月、三月の東京例会、三月の「はちまん句会」の特選並びに秀逸をとった作品。例えば、「囀り」の一句は、特選1秀逸3佳作2の総合得点11を獲得し、「バレンタインデー」は特選3秀逸1佳作3の総合得点14を獲得して二月の東京例会での最高得点をあげた。また、今月の五句投句は総合得点14を獲得し、15点の松下由美につぐ。

「風光る」の句は、現代では見かけなくなった剌とした少女の生命讃歌であり、眩しいのは胸の貝釦よりも少女の全身が発するオーラである。また、「囀り」の一句は、日常の中の細やかなドラマを言い止めた作品。「囀り」という外の「明」に対して、室内の電子レンジは「暗」という程ではないが、ある種の倦怠感が滲み出ている。さらに、外の自然音に対して電子レンジの人工音も醸し出されている。

一方、「バレンタインデー」も、チョコレートと無縁な中七下五の「少し残業して帰る」の措辞に舌を捲いた。比較する上で、例句をあげると、

楽器提げバス待つバレンタインの日   中川石野
老教師菓子受くバレンタインデー   村尾香苗
白鳥の田に来るバレンタインの日   佐川広治
バレンタインデー積らぬ雪の降りにけり   角川春樹
バレンタインデー浅蜊が舌を出してをり   大森理恵

がある。しかし、「バレンタインデー」という「晴」に対して、中七下五の「少し残業して帰る」の「褻」は、俳句本来の「もどき芸」として、全ての例句を凌いでいる。「魂の一行詩」の重要な課題である、日常の中の物語性の代表句と言ってよい。『半獣神』の中で最高得点4を、次の作品と共に獲得した松永富士見一代の名吟である。十七文字に人生が浮かぶ傑作。

薄氷を雲のごとくに跨ぎけり   丸亀敏邦
白魚のひれのさらなる白さかな   青木まさ子

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貝寄風の砂の城よりオルゴール   川越さくらこ

同時作に、

若鮎のまなこを過ぐる光かな
帯とけば思慕のごとくに花の雨

がある。「花の雨」は匂ふような色気のあるエロスの佳吟であり、「若鮎」の一句は、芭蕉の「物の見えたるひかり、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」の発言の通り、俳句も魂の一行詩も、「物のひかり」をみ止め、永遠の時間の中にある「今」を言い止めることだ。例えば、私の次の一句がそれである。

いま過ぎしもののひかりや猫柳   角川春樹

「若鮎」の一句は、私の「猫柳」に匹敵し、「貝寄風」よりも優れた作品だが、一方、「貝寄風」の不思議な感覚が私を惹きつけてやまない。「貝寄風」とは、陰暦二月二十日前後に吹く風をいう。この風により難波の浜に吹き寄せられた貝殻で、大阪四天王寺の聖霊会の筒花の造花を作るというので、この呼び名となった。例句としては、

貝寄風や難波の蘆も葭も角   山口青邨
貝寄風に乗りて帰郷の船迅し   中村草田男
貝寄風や河豚の屍の腹を見せ   鈴木真砂女

がある。川越さくらこの「貝寄風」の句は、私に北村峰子の次の一句を思い起こさせた。

寒月光集め砂城のでき上が   北村峰子

私は峰子のこの句に対して、次の鑑賞を書いた。

「砂上の楼閣」を「砂城」と言い換えたのも面白い。冬月の光を集めて砂の城となったといっているだけだが、この幻想的な光景は当然崩壊することを前提として詠まれている。つまり、最近の峰子作品に現れる自分自身の肉体と精神の崩壊の危機意識である。幻想的で美しい一行詩でありながら、正に鬼気迫る作品となっている。

川越さくらこの砂の城は、幻想的ではあるが、北村峰子ほどの切迫感は感じられない。下五の「オルゴール」が、一見、何とも穏やかで微笑ましいからだ。しかし、それにしては「貝寄風の砂の城」とは何なのか。貝寄風によって砂の城は、直ぐに崩れてしまう。それとも貝寄風によって砂の城ごときものが出来上がった、とでもいうのか。多分、作者の「貝寄風の」の助詞の「の」は、「や」のような切れ字の代用ではなく、……にある、……にいる、……における、と言った場所を示すために使用されているのだろう。つまり、句意としては、貝寄風の中の砂の城よりオルゴールが聴こえてくる、ということだろう。それでは、何故に「早春」ではなく、「貝寄風」を持ってきたのか。ここではやはり、「風の中」の砂の城でなければならないわけがあるに違いない。平成十九年『河』九月号に川越さくらこの、次の作品がある。

崩壊の後の一人の端居かな   川越さくらこ

さくらこのこの句について、『河』九月号に次の鑑賞を載せた。

川越さくらこの「端居」は実景ではない。「虚」である。しかし、このドラマ・トゥルギーは「端居」が「家族団欒」の象徴として使用されていることに、読者はまず気づいてほしい。その家族団欒の崩壊の後に、作者は一人端居しているのだ。

川越さくらこの「貝寄風の砂の城」は、前回の「崩壊の後の一人の端居」と兄弟句と言ってもよい。前後関係から言えば、「砂の城」の崩壊の後に「一人の端居」がある。「貝寄風」は、早春の透明で明るい風である。それに対して、崩壊寸前の砂の城からオルゴールが聴こえてきた、と解釈すると、何とももの哀しい、アイロニーとなる。一見、メルヘンチックな裏に恐ろしい危機感を孕む、グリム童話集のような一行詩。これがこの句の正体である。

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菜の花や明日はく靴の見つからず   西川輝美

同時作に、

帰るべき部屋なき少女胡桃割る
夕桜孤独な鼻がぶら下がる

があり、全てが結びついている。帰るべき部屋のない、孤独な少女に、明日はく靴が見つからない、ということだ。この少女は、作者である西川輝美の分身である。明日はく靴が見つからない作者に対して、上五の「菜の花」の季語が絶妙な働きを示している。つまり中七下五の「暗」を上五の「明」に転換させたわけである。西川輝美が久々に見せた佳吟。

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誰にも会はず復活祭の水を飲む   若宮和代

同時作に、

エプロンは白と決めをり蕗の薹
春の虹もうづゑはつかずゐる

がある。「蕗の薹」「春の虹」は、二月の「しゃん句会」の兼題であった。私の投句は次の作品である。

―福島勲氏へ―
風狂のいのち惜しめよ蕗の薹
春の虹見えざるものをこぼしけり

「しゃん句会」での若宮和代の「蕗の薹」の句は、特選4の高得点であり、「春の虹」は秀逸にとられた。二句とも、若宮和代らしい日常吟の句だが、「復活祭」の句は、前二作と少し様子が違う。「復活祭」とは、キリストの復活を記念する祭で、春分のあとの最初の満月直後の日曜日である。例句としては、

胸に享く復活祭の染卵   石田波郷
藪を透く桃のさかりよ復活祭   木下夕爾
祈るべく木椅子は浅し復活祭   鈴木栄子
復活祭神父の腰に鍵あまた   有馬朗人
鎧扉の海にひらかれ復活祭   朝倉和江

があり、それぞれ佳吟である。木下夕爾を除けば、復活祭というキリスト教の行事に即して一句が成り立っているが、若宮和代はそうではない。復活祭の「晴」に対して、上五、下五は「誰にも会はず」「水を飲む」という「褻」である。正に俳句の「もどき」そのものである。復活祭だからと言って、染卵を享けるのでもなければ、教会で祈るわけでもない。誰とも会わずに、家の中か、外かを問わず、ただ水を飲んでいるだけである。そこには、意識としては浮かび上がってこない寂寥感がひそんでいる。昨年の『河』十二月号の作者の次の作品がそれに近い。

皿一枚洗つて眠る良夜かな   若宮和代

もう一句、『河』三月号の次の作品が、「復活祭」の水を飲む景の裏側にある。

焼きたてのパンにはさんでゐる孤独   若宮和代

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謝罪会見倦みたる亀の鳴きにけり   石橋 翠

同時作に、

目をあけてゐられぬ海よ菜の花よ
小さい春が寄せては返し花舗の窓
ブロッコリー真正直とは困ったもの
黒猫が狙つてをりし流し雛

があり、それぞれ違った角度から一行詩が詠まれている。「菜の花」は、早春の海と共に眩しさを強調した視点だし、「小さい春」は裏側に三寒四温を隠して、下五に花屋の窓を据えたことにより景がパッと拡がった一句。「ブロッコリー」は、真正直な人間が周囲に撒き散らす迷惑さを皮肉くり、「流し雛」はユーモアのある作品だが、「はちまん句会」の兼題であった「亀鳴く」は圧倒的にユニークで、ユーモアがあり、さらに「魂の一行詩」の側面にある「風刺」が効いた佳吟。にも拘らず、私と堀本裕樹の二人だけが特選にとり、他は佳作にもとられなかった選句眼のなさに失望した。「亀鳴く」という季語自体にユーモアが含まれるが、これほど面白い句に出会ったことはない。「はちまん句会」の「亀鳴く」の兼題句は、次の通りである。

化石の街泳ぎきつたる亀が鳴く   小林政秋
亀鳴くやお前はどんな海を見た   角川春樹
ニューヨーク時間の亀に鳴かれけり   同
鶴よりも亀のひとこゑ待つてをり   鎌田 俊
靴下の亀鳴くほどの丈なりき   同
ライブハウス亀背伸びして鳴いてゐる   竹本 悠
亀鳴くや金の生る木に水をやる   松永富士見
ハンガーに鳴かない亀を吊るしけり   松下由美
亀鳴くや車内にヘッドフォンあふれ   堀本裕樹

以上の通りだが、特選2秀逸2佳作3総合得点13を獲得したのは、及川ひろしの次の句であった。

前略といふ貌をして亀鳴けり   及川ひろし

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薄氷を雲のごとくに跨ぎけり   丸亀敏邦

今月の『半獣神』の中で次の二句と共に最高得点4を獲得した作品。

バレンタインデー少し残業して帰る   松永富士見
白魚のひれのさらなる白さかな   青木まさ子

「薄氷」は二月の「はいとり紙句会」の兼題であったが、俳句歳時記の例句をあげると、

葛桶に薄ら氷ゆらぐ宇陀にをり   能村登四郎
薄氷ひよどり花の如く啼く   飯田龍太
薄氷を昼の鶏鳴渡りゆく   野澤節子
薄氷に透けてゐる色生きてをり   稲畑汀子

があるが、これはという名句もない。今あげた句は、例句の中でもましな作品だが、丸亀敏邦の「薄氷」は全てを凌ぐ一代の名吟である。中七下五の「雲のごとくに跨ぎけり」の措辞は誰もが言えなかったこと。勿論、類想も類形もない。

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白魚のひれのさらなる白さかな   青木まさ子

同時作に、

宵の焦がれてをりしデュポンの炎
春休みサンドウィッチが乾きます

があるが、「白魚」の句は断然良い。「白魚」の例句をあげると、

あけぼのや白魚白きこと一寸   芭蕉
笹折りて白魚のたえ青し   才麿
白魚やさながら動く水の色   来山
美しや春は白魚かひわり菜   白雄
白魚の漁火となん雪の中   鈴木花蓑
白魚の水ともならず雪降り降る   大谷碧雲居
白魚のみごもりゐるがあはれかな   鈴木真砂女
篝火に飛び込む雪や白魚舟   松本たかし
思ひだけ白魚に柚子したたらす   細見綾子
白魚のさかなたること略しけり   中原道夫

と、白魚の名句が驚くほどある。私の句をあげると、

白魚にかくも愛しき眼あり   角川春樹

があり、白魚の小さな目に焦点を合わせた句だが、小さな鰭には思い及ばなかった。そこに焦点を合わせたことが、青木まさ子の手柄である。白魚自体よりも、その小さな鰭の白さを詠った例句は存在しない。青木まさ子の傑作である。

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凍鶴とならねば見へぬ星もあり   前原絢子

同時作に、

灯に似たる男が去りて余寒かな
ネックレス切れ総立の樹氷林

がある。「凍鶴」の句は、二月の「はいとり紙句会」で私が特選にとった。銀座の「卯波」が閉店し、銀座「かちわり亭」で行なわれた第一回目の句会で、私が特選にとったのは次の句である。

春光の坂ありかもめ来たりけり   堀本裕樹
黄水仙どんな夜明けがあるだらう   のだめぐみ
春愁のスペイン坂に暮れにけり   同
薄氷を雲のごとくに跨ぎけり   丸亀敏邦
春浅しものの果てなる瀬のひかり   平岡 瞳

北海道の釧路湿原には丹頂鶴の群棲が見られるが、前原絢子の「凍鶴」は、その丹頂鶴を指しているのかも知れない。例句をあげると、

去年の鶴去年のところに凍てにけり   水原秋櫻子
凍鶴に忽然と日の流れけり   石橋秀野
子供らにいつまで鶴の凍つるかな   石田波郷
水飲みて凍を強めし凍鶴よ   鷹羽狩行

があるが、全て凍鶴を客観視した作品ばかりである。それに対して、前原絢子の「凍鶴」は、作者自身が凍鶴になり切るという発想の新しさが手柄である。更に、凍鶴にならなければ見えない星もあるという視点は、正に詩の中にしか成立しない物語性だ。このような感覚は、従来の俳句の世界では否定されてきた。「盆栽俳句」の立場から言えば、「観念的」、「生活感」がないなどとの詩とは無縁な発言を浴びせることになろう。前原絢子が久々に見せた佳吟である。

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扉を開けて帰る場所なき弥生尽   のだめぐみ

同時作に、

春愁のスペイン坂に暮れにけり
手で挽いたコーヒーの香に春立ちぬ
黄水仙どんな夜明けがあるだらう
鞦韆や過ぎゆく日々に手を振れり

があり、全て佳吟。『河』作品の五句投句の総合得点15を獲得した。三月の「はいとり紙」の兼題は「三月」「弥生」で、特選3をとったのは、私の次の二句とのだめぐみの右の句だけであった。

ある晴れた日の三月を踏みにじり   角川春樹
三月や水より空の流れゐる   同

また、「春愁」と「黄水仙」の句は、二月の「はいとり紙句会」の特選句である。兼題は「黄水仙」、読み込みが「坂」であった。私の投句は次の二句である。

きさらぎの柿の木坂に日暮れゐる   角川春樹
午後の日のテーブルにある黄水仙   同

私の古典的な柿の木坂に対して、のだめぐみは現代のスペイン坂を持ってきた。さらに「黄水仙」の一句は、私の新鮮さを意識した上五中七の「午後の日のテーブルにある」に対して、のだめぐみは中七下五に「どんな夜明けがあるだらう」を持ってきた。歌手としてのASUKAは、映画「神様のパズル」の主題歌を担当しているが、カップリング曲「ある日、どこかで」はのだめぐみの作詞である。そこには、「魂の一行詩」がふんだんに盛り込まれている。

その作詞の手法が「魂の一行詩」にも影響を与えた結果が、「黄水仙」の季語に対して「どんな夜明けがあるだらう」となったわけである。それは「鞦韆」の句についても同様である。「鞦韆」という古典的な季語に対して、中七下五の「過ぎゆく日々に手を振れり」とは、従来の俳句的発想からは生まれてこない。古典としての季語を使えば、どうしても俳句らしい俳句を作ってしまうが、若いのだめぐみの言語感覚は、季語の本来的な意味を無視して、言葉が持つ魅力、つまり季語の再発見を自分の肉体を通して、彼女の言語として再生産しているように思われる。昨年の『河』十月号、十一月号の、のだめぐみの作品がそれを示している。

クローゼットの中ひそやかな解夏の夜   『河』十月号
過ぎてゆく時間のごとし処暑の椅子   〃十一月号

そのことは、今回の「弥生尽」の句についても言えることだ。昔は三月と書いて「ヤヨヒ」と読んでいた古典的な季語に対して、上五中七の「扉を開けて帰る場所なき」の措辞を持ってきた。例句をあげてみよう。

≠スけて紅の菓子あり弥生尽   水原秋櫻子

秋櫻子の句は、山本健吉氏の言う「きれい寂」の美しい作品。上五の「≠スけて」は中七の「紅の菓子あり」にかかるが、下五の「弥生尽」という言葉と美事に響き合っている。一句全体が短歌的な抒情詩である。それに対して、のだめぐみの上五中七は、正に作詞的な現代詩である。この句はのだめぐみにあっては「虚」ではない。両親と決別して、扉を開けても帰る場所のない現実なのだ。その厳しい現実が、次の句を生んだ。

父とか母とかどこかに浮かんでゐる二月   『河』七月号
父といふ日が足もとに転がつてゐた   〃 九月号

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春愁やギターリストの細き指   上田郁代

同時作に、

啓蟄や混み合つてゐる始発バス
壺焼きや心の中に開かずの間
三月や街に孤独を捨てに行く

があり、どの句も良く、総合得点14でのだめぐみにつぐ『河』作品の第二位である。春愁のギターリストの句では、渡辺二三雄の次の秀吟がある。

地下鉄へ入る春愁のギタリスト   渡辺二三雄

それに対して、上田郁代は「ギターリストの細き指」を持ってきた。「春愁」は、「や」という切れ字を使っているものの、下五の「細き指」にかかっている。つまり、「春愁の細き指」ということだ。「細き指」に「春愁」を発見したところが、この句の手柄である。上田郁代の作品が私の目に止まるようになったのは、『河』三月号の次の作品である。

深秋や昭和の香ある喫茶店
ポッペンを吹いて行く秋惜しみけり
極月や魔女のブーツを買ひにゆく
大判のマフラー巻いて自爆する
真夜中に恋文燃やす雪女郎

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二月この一つ外せば積木崩し   佐藤聡美

同時作に、

なかった事にして春愁に紛れ込む
勝手に氷が二月の器に落ち
千日かけても嫌いになれない理由

がある。どの句も、具象というより抽象的な現代詩。中でも「積木崩し」の句が面白い。「積木崩し」は、普通、家族崩壊のメタファーと考えられるが、この句の場合、文字通り積木遊びの建造物が、一つ外すことによって崩れてしまうこと。メタファーは「二月」にある。私の次の句が参考になる。

ある晴れた日の三月を踏みにじり   角川春樹

私の「三月」は、人間関係とそれに付随する事象のことである。佐藤聡美の「二月」も、作者以外には正確に理解できない人間関係、ないし事象のメタファーだろう。例えば、堅固な人間の絆(家族、友情、恋愛といった精神的なり)も、たった一つの出来事で積木のように、いとも簡単に崩れてしまうの意である。佐藤聡美の今回の投句五句は、総合得点13で第三位だが、今年に入ってからの作品を眺めてみると、

酔うて候ふ角の氷が啼いて秋   『河』一月号
獄に棲む冬の蟻一つ食うてみる   〃 二月号
聖夜に銃声それでも五木ひろし   〃 三月号
冬木の芽いのちのねぢを巻き直す   〃 四月号

といった句が並ぶ。感覚的な一行詩だが、三月号の「聖夜に銃声」は説明できない魅力がある。

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CDのタンゴに変り雛の夜   竹本 悠

同時作に、

本棚の真空管ラヂオ囀れり

がある。「雛祭」は、三月の「はちまん句会」の兼題で、特選をとったのは竹本悠と藤田美和子の次の句である。

銀紙の鶴二つ折る雛の夜   藤田美和子

私の当日の投句は、次の二句である。

雛の日や夕べのBARにひとりゐる
灯ともして2LDKの雛まつり

竹本悠の「雛の夜」は、私の「灯ともして2LDKの雛まつり」の景だ。雛祭だからといって、一戸建ての家でない限り雛段があるわけではない。リビングの棚に小さな一対の雛人形がある位だ。CDの音楽が何んであったかわからないが、途中でタンゴのCDに変えたという句意だが、この句にも日常の細やかなドラマ性がある。つまり作者の気分が、明るいタンゴの曲を好んだということは、「鬱」というほどでないにしても、明るさとは懸け離れた状況だからだ。タンゴの「明」に対する心理的な「暗」である。そして、それに「雛祭」の「晴」が背景として置かれている。

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早春やフィルムのないライカ持つ   伊藤実那

同時作に、

人待ちの少女白鳥の首をして
修羅界に降りて桜を浴びにけり

がある。修羅界の句は、私の獄中句集『檻』の次の一句を思い出させた。

わが生は阿修羅に似たり曼珠沙華   角川春樹

私の魂の故郷は天の川である。私は人生をゲームとして遊ぶために、水の星である地球に生まれてきた。しかし、輪廻転生の度に、私の生まれた時代は修羅界である。その修羅界にあっても、獄中にいた時でさえ、桜の落花を浴びているのだ。そして、今年も花の吉野に行き、花の吹雪に見えることになろう。伊藤実那の生もまた、私と同じかもしれない。

一方「早春」の句は、いかにも伊藤実那らしい作品。例えば、次の句だ。

死にてより父と呼ばるる人へ雪   『河』十月号
ダイキリを飲む父とゐて涼し   〃十二月号

伊藤実那の「父」という存在は、「幻」である。寺山修司の詠う「父」と同様である。だから『河』十二月号の「ダイキリを飲む父」は美しい幻なのだ。私の一行詩集『飢餓海峡』に次の二句がある。

光る風父のライカを首に吊り   角川春樹
春光や父の手擦れの二眼レフ   同

父の形見であるライカも二眼レフも、当然フィルムは入っていない。伊藤実那のライカもフィルムがないと言っている以上、本人のものではない。持ち主は「幻の父」である。「早春」という透明な輝きのなかの、不在の父の暗喩としてのライカなのだ。

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死に近き人と牛乳飲んでゐる   阿川マサ子

同時作に、

桃咲いて空はみづいろだと思ふ
うずまきは命の原初水温む
なめらかに開脚前転春が来る

「水温む」の一句は、生命の誕生というより宇宙誕生と同時に、うずまき状のパラレルが発生した。また、全ての生命の遺伝子は螺旋状である。螺旋状の遺伝子は、現在もうずまき状で膨張を続ける宇宙そのものである。また「水温む」は羊水のメタファーである。そして「桃咲いて」の句は、中七下五の「空はみづいろだと思ふ」を導き出すために選択された季語。下五の「だと思ふ」の据え方が見事である。

一方、「牛乳」の一句は、アイロニー。川柳作家の時実新子の言う「川柳は俳句と違って意地が悪い」を裏付けるような作品。季語はないものの、見事な人間諷詠を描いた佳吟。

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春浅しものの果てなる瀬のひかり   平岡 瞳

平岡瞳の「春浅し」は、二月の「はいとり紙句会」の特選句。出席者全員を驚かせた作品。上五の「春浅し」に対して、中七下五の「ものの果てなる瀬のひかり」は、『銀河集』の作家でも言えない措辞。彼女は「魂の一行詩」を始めて、まだ二ヶ月しか経っていない。私の目指す「澄んだ水のような一行詩」を、いとも簡単に平岡瞳は作ってみせた。佳吟である。

※この号の本文は、讀賣新聞の連載と角川春樹主宰の『河』5月号に掲載したものから加筆再構成したものです。
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