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| 『河』作品抄批評 |
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| 一日の夕映えに置くトゥシューズ e原悠貴
「春待つ日」と題する同時作に、
着膨れてスーパーにゆく孤独な日
美しき手が大輪の雪降らす
ある。「美しき手」の句は、今年の二月三日に行なわれた東京中央支部の例会で特選をとった句。この日、立春の雪が降った。「美しき手」が大輪の雪降らす、という発想が面白い。また、春の牡丹雪を「大輪の雪」と表現し得たことも、この句の手柄である。大輪の花のような雪の巧みな措辞だ。しかし、なんといっても上五の「美しき手」で勝負が決まった。「トゥシューズ」の句は、一月の「しゃん句会」の特選句。この日の例会で最高得点をとった。「一日」は勿論一月一日のことである。「いちにち」ではない。「一日」が季語として成立するかどうかとは、俳句に縛られての考えに過ぎない。私は充分に元日を表すと判断を下した。「魂の一行詩」は、イコール俳句ではない。勿論、秀れた俳句は、秀れた「魂の一行詩」である。だが、俳句という言葉に拘束されるのは、間違いである。大事なことは、一行詩として成立しているかどうか、ということ。e原悠貴の「一日」の句は、中七下五の「夕映えに置くトゥシューズ」の措辞が素晴らしい。何よりも映像がたちどころに浮かんでくる。元日の句としては、全く類想のない新鮮な一行詩。 |
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| 初虹の燃えつきるまで見てゐたり 鎌田 俊
「初虹」と題する同時作に、
ラジコンの飛行機がとぶ年忘れ
海鳴りの漉きたる雪の夜となりぬ
がある。「年忘れ」の句は、十二月の「はいとり紙句会」の兼題であり、従来の季語のイメージを一変させた佳吟。また「雪の夜」の句は、上五中七にかけての「海鳴りの漉きたる」という措辞が群を抜いている。海岸の付近は、海からの強風で紙を漉く程度の積雪でしかない。それを、海鳴りの漉いた雪だと表現したのは鎌田俊の言語感覚である。
「初虹」とは春の虹のこと。春の虹が消えゆくまでを見つめていた状況を、「燃えつきるまで見てゐたり」と言い止めたのには感心した。この句は、季語である「初虹」の本意本情を一句のドラマに仕立てた作品。俳句歳時記の例句と比較しても遜色のない佳吟。 |
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| 早春の部屋に置かれしランドセル 松下千代
「ランドセル」と題する同時作に、
チョコレート買ひ足してゐる浅き春
寒の水飲み干し棒のごときかな
がある。「浅き春」の句は、バレンタインデーを面白く言い止めた作品。また「寒の水」の句は、二月三日の東京中央支部の例会での高得点句だが、発想としては必ずしもユニークという訳ではない。例えば次の私の二句がある。
水呑んで棒となりしよ広島忌 句集『信長の首』
のんですぐ背骨つらぬく寒の水 句集『一つ目小僧』
しかし、「早春」の一句は、私だけが特選にとったユニークな作品。俳句歳時記の例句をあげると、
早春の山笹にある日の粗さ 細見綾子
早春の入日林中の笹を染む 水原秋櫻子
橋早春何を提げても未婚の手 長谷川双魚
早春の暁紅の中時計打つ 石田波郷
がある。しかし、松下千代の「早春」の一句は、全く新鮮で現代的な作品。中七下五の「部屋に置かれしランドセル」の措辞がイメージを膨らませ、ドラマツゥルギーがある。早春の冷々とした部屋の空気と、子供の不在がありありと読み手に伝ってくる。映像の復元力と季感の効いた一句。 |
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| きさらぎのはかなきものが海に降る 松下由美
同時作に、
数へ日のペットショップに日暮ゐる
年ゆくやゴッホの耳が落ちてゐる
縄飛びを廻す虚空の芯にゐて
一月一日空席ひとつありにけり
があり、全て佳吟。『河』三月号に続いて総合得点15をあげた。中でも「きさらぎ」の一句は、二月の「はちまん句会」で特選5佳作3の総合得点18をとった最高得点句。「きさらぎ」「二月」は兼題であった。中七下五の「はかなきものが海に降る」がなんとも言えず上手い。海に降るものが「雪」なのか、作者の「思い」なのか、具体的なものを一切出さず、一句を抽象化してみせたのが手柄。一句の立ち姿も良い。文句なしの秀吟である。 |
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| 新作のパンが並びて春立ちぬ 石橋 翠
この句も二月の「はちまん句会」で特選4秀逸1佳作3の総合得点17をとった高点句。『河』四月号では、蛭田千尋の次の句と共に最高得点4を獲得した。
美しきカタログ届く二月かな 蛭田千尋
「春立ちぬ」の一句は、石橋翠一代の名吟。「はちまん句会」の出席者がこの句を特選にとった理由は、映像の復元力が効いているからだが、私が特選にとった訳は蛭田千尋の「二月」の句と同様に一行詩の中で季語が自己主張していないことにある。つまり季語が季語として威張っていないことだ。これを「純粋季語」或いは「季語の純化」とも言う。「春立ちぬ」という季語が、上五中七の「新作のパンが並びて」という、誰もが記憶を共有出来る映像に対して「春立ちぬ」が実にさりげなく置かれているからだ。それでいて、季語が充分に働いているではないか。例えば、芭蕉の次の代表作と比べるとよい。
海くれて鴨の声ほのかに白し 芭蕉
冬の季語である「鴨」が一句の中でさほど目立つこともなく、それでいて充分に働いていることがわかるであろう。 |
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| 北窓を開き明日もここにゐる 若宮和代
同時作に、
どの家も灯をこぼしゐる春の雪
があり、この句も佳吟。「春の雪」の句は、いわば客観写生だが、「北窓」の句は、主観の強い一句で、必ずしも写生とは言えない。高浜虚子の「客観写生」に対して反旗をひるがえした水原秋櫻子は「主観写生」である。現在の「ホトトギス」もいまだに「客観写生」を提唱しているが、それでは自己の主情を述べることが出来ぬ幼稚な方法論に過ぎない。若宮和代の「北窓開く」が良いのは、中七下五にかけての「明日もここにゐる」という断定的な措辞による。私が俳句の三原則としてあげた「映像の復元力」「リズム」「自己の投影」のうち、一番重要視したのは「自己の投影」である。「明日もここにゐる」は、明確な「自己の投影」。私が「魂の一行詩」を提唱する中で、「象徴詩に向かう」であろうと述べた。季語は「いのち」であると同時に「象徴」である。若宮和代の「北窓を開き」も自分の心境の象徴なのだ。「心の窓」という言葉があるように、若宮和代は「心の北窓」を開いた、と言っているのである。現実としての、写生として北窓を開いた訳ではない。「俳句」という古い北窓を開いて、心を自由に「魂の一行詩」を詠む覚悟だ、というのがこの詩の真実なのだ。若宮和代にとって、「魂の一行詩」だけが自分の存在証明なのである。過日、私は若宮和代から次の手紙を受け取った。その一部を抜粋する。
「冬蝶」の句の評を読んだ時、今の自分を素直に認めていいのだという安心感につつまれました。うまく言えないのですが、例えばそれは、樹齢幾百年という大樹に抱かれているような安心感、幸福感なのです。自分の存在をそのまま受け入れてもらえ、肯定してもらっている。つまり救われているという安心感なのです。(略)
「冬蝶」の句とは、『河』二月号の次の作品。
冬蝶や日の差してゐる水たまり 若宮和代
「北窓を開き」の句は、「冬蝶」を凌ぐ優れた象徴詩である。 |
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| 焚火して昭和の日暮に父がゐた 梅津早苗
私にとっても、昭和五十年に他界した父は昭和そのものであった。私がエグゼクティブ・プロデューサーを務めた映画「神様のパズル」の演出を、若者に人気の高い三池崇史監督に依頼した。地方ロケでマスコミのインタビューを受けた三池は、
「角川さんは、昭和的強さをもった昭和そのものの人です。いまや絶滅に瀕するイリオモテヤマネコみたいな存在」
私は三池に褒められたのか、貶されたのか、ヨクワカラナイ。ただ、私も昭和そのものと言われたことに、驚いただけだ。梅津早苗の句は、現在の実景ではない。少女期に夕焚火をする父親を目撃していたのかも知れないが、句の解釈としては、夕暮に焚火をしていたら、そこに父親が立っていた、ということ。上手いのは中七下五の「昭和の日暮に父がゐた」の措辞だ。特に「昭和の日暮」である。この句も、主情性の強い「主観写生」である。「昭和の日暮」とは、言い得て妙だ。二通りの解釈の可能な「日暮」である。文字通りの昭和の時代の、とある日暮れ。もう一つは、昭和の終焉の時期ということ。多分、その二つがミックスされた「昭和の日暮」であろう、というのが鑑賞としてのありかたである。詩的イマジネーションの優れた一行詩。 |
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| 陽炎や人のかたちで降りる駅 川越さくらこ
同時作に、
マリア来てぬくめてゐたる寒玉子
があり、この一句も面白い。だが「陽炎」の一句は断然に良い。句意は、陽炎が人のかたちで駅を降りた、ということ。勿論、降りたのは人間であって陽炎ではない。しかし、川越さくらこは、人間そのものを陽炎のような希薄な存在と考えている。自分自身を含めてであるが。私は「魂の一行詩」を成立させる力は、次の三つだと考えている。
一、感性の力
二、イメージの力
三、自然体
川越さくらこの「陽炎」の句のインパクトは、この感性とイメージが際立つ作品。次の川越さくらこに対する挨拶句が、この句の解釈でもある。
陽炎や人のかたちに消えゆけり 角川春樹 |
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| 北風や去りゆくものに追ひつけず 菅城昌三
今月号の『半獣神』の中で次の作品と並ぶ最高得点4をとった。
新作のパンが並びて春立ちぬ 石橋 翠
美しきカタログ届く二月かな 蛭田千尋
「北風」の一句は、サラリーマンのペーソスを描いた秀吟である。去ってゆくのは北風だが、この句の場合、北風が持ち去ったものだ。具体的な物ではなく、心理的なもの。例えば、「恋」、「青春」、「他者に対する愛」、「友情」といった存在である。その存在は、作者にとって掛け替えのないものだ。掛け替えのないものが北風と共に去ってゆくのに、追いかけても追いかけても近づくことが出来ない。私は、それが菅城昌三という作者の「夢」或いは「ロマン」と解釈した。ペーソスに満ちた秀吟は、夢の挫折と引き替えなのかもしれない。 |
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| 誰がための雪の眼鏡かオホホホホ 鎌田志賀子
同時作に、
柊や鎖骨に蒼き夜が来る
天狼や国境こえる銀の鳥
躓いてさて躓いて雪女郎
がある。作者は八十七歳。「雪眼鏡」の一句のようなユーモアは、いったいどこから来るのであろう。「魂の一行詩」に「笑い」や「滑稽」が必要であることは、何度も説いてきた。本物の一行詩人であるためには、ユーモア句を作品化しなければならない。上五の「誰がための」は、勿論ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」のパロディ。「雪眼鏡」は、雪の反射で雪眼になることを防ぐためのサングラス。エスキモーの人達は木製の雪眼鏡を使用している。例句をあげると、
雪眼鏡みづいろに嶺々沈まする 大野林火
雪眼鏡山のさびしさ見て佇てり 村山古郷
雪眼鏡そびらに過去を流しつつ 文挾夫佐恵
があるが、いずれの句も鎌田志賀子に及ばない。下五の「オホホホホ」には、真実脱帽した。雪眼鏡をしているのは人間だが、上五の「誰がための」とある以上、自分のためでなく第三者に対して、ということになる。私は、この第三者は人間だが、主格は雪女郎ではないか、と想像した。つまり、雪女郎が人間に対して呼びかけている一行詩だ。下五の「オホホホホ」と笑っているのは、即ち雪女郎ということになる。勿論、この雪女郎は作者かも知れない。ユーモア句として出色の秀吟である。 |
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| 美しきカタログ届く二月かな 蛭田千尋
河』四月号の『半獣神』の中で、次の作品と共に最高得点4を獲得した秀吟。
北風や去りゆくものに追ひつけず 菅城昌三
新作のパンが並びて春立ちぬ 石橋 翠
会に投句された作品。特選3佳作3の総合点12をとった蛭田千尋一代の名吟。石橋翠の作品批評で触れたように、この句は映像の復元力に優れ、新鮮この上もない「二月」の句だが、それ以上に感心したのは、「かな」という詠嘆の終助詞を使いながらも、季語である「二月」は、少しも季語であることを自己主張していないことだ。前述の「純粋季語」「季語の純化」ということである。そして、この立ち姿の良さにも感心した。一句全体が目に飛び込み、一瞬にして読者に記憶される作品。読者は、まず上五中七の「美しきカタログ届く」という措辞に目を奪われる。そして下五の「二月かな」で、なるほどと感銘する仕組みとなっている。二月の例句では、大森理恵の次の代表作と並ぶ秀吟である。
イタリアの地図を見てゐる二月かな 大森理恵 |
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| ビー玉の透きとほりたる余寒かな 西澤ひろ子
同時作に、
コンパスで円を描きて鳥雲に
灯の消えた真砂女の店や草萌ゆる
埋火や齢を静かに重ねをり
がある。西澤ひろ子は、かつて次の作品を発表している。
蟷螂の恍惚として枯れゆけり 西澤ひろ子
この句に関して、私は次のような作品批評をした。
ひろ子の作品の魅力は「かまきり」が恍惚となって枯れてゆくという、類想感のない表現力にある。著しい進境を見せた佳吟。しかし、ひろ子は恍惚として枯れるどころか、若手の鎌田俊などを従えて、雌雄交尾中、また交尾後に雄を食ってしまう雌かまきり。やっぱり自画像か?
鑑賞文にある通り、雄を食ってしまう雌かまきりのような西澤ひろ子が、「埋火」の句の、「齢を静かに重ね」たりするものか。私も相当悪辣で嘘八百を詠むが、西澤ひろ子の「齢を静かに重ねをり」には、頭を抱えてしまった。ひろ子は私と同年だが、弟子であるひろ子は師である私を越える嘘つき。一行詩は俳句の真面目な「実」の写生句と違って、嘘八百の「虚」でいいんだけどね。
しかし、「余寒かな」の一句には、本当に感心してしまった。「余寒」という季語は、「早春」と共に、使用するのが難しい。高浜虚子の次の代表句があるものの、体感としてありながらも、秀句を創るのは容易でない。
鎌倉を驚かしたる余寒かな 高浜虚子
虚子以外の例句を眺めると、西澤ひろ子の「余寒」は、少しも負けていない。二月頃、透き通ったビー玉を見ていると、まさしく余寒そのものを感じるからである。ビー玉を素材に用いた一句としては、松下千代の次の句と並ぶ秀吟。
ビー玉の中に春の日揺れてをり 松下千代 |
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| テーブルにスーパーで買つた冬がある のだめぐみ
同時作に、
凍てて透明な夜となりにけり
人の日の椅子に孤独の坐りをり
吹雪ゐるこころがことばを越へてゆく
スーパーに買ひ忘れたる冬がある
があるが、「買ひ忘れたる冬」と「スーパーで買つた冬」は兄弟句。両句とも、印象鮮明で面白い作品。「滝凍てて」は、昨年十二月十三日に行われた札幌中央支部の例会で、高得点をとった。あとの四句は、一月二十三日の「はいとり紙句会」での投句作品。スーパーは、読み込みの兼題で、二十五日に閉店する銀座「卯波」での、最後の句会となった。この日も、大多和伴彦や丸亀敏邦の言う「のだめ祭」となって、特選、秀逸、佳作をほぼ独占した。特に「人の日」の一句は、特選3秀逸3佳作1の総合点16を獲得して、この日の最高点句となった。しかし、作品としては、「吹雪ゐる」そして「スーパーの冬」の二句のほうが上である。さらに言えば、「スーパーの冬」よりも「吹雪ゐるこころ」のほうが作品としては上だが、新鮮さというか、のだめぐみ流と言ったほうが適切なスーパーの二句に惹かれたので、この句を鑑賞することにする。読み込みに「スーパー」を、特に「ジャスコ」をと主張したのは大多和伴彦で、夏に「カクテル」の読み込みを提案し、結果として全員の作品が面白かったのは事実だが、それにしても「ジャスコ」にこだわった理由がわからない。どうも大多和伴彦の行きつけのスーパーらしい。スーパーを読み込んだ当日句は次の通りである。
七種やジャスコのレジが愚痴を吐く 角川春樹
着膨れてスーパーにゆく孤独な日 e原悠貴
パンドラの箱を探しに紀ノ国屋 平岡 瞳
ダイエーの灯りにありて仏の座 藤原敬之
ダイエーにネギだけを買ふ深夜かな 佐藤和歌子
当日、私は「買ひ忘れたる冬」を特選に、「スーパーで買つた冬」を秀逸にしていたが、スーパーの句は両句とも面白く、甲乙つけがたかった。その印象は今月の鑑賞文を書く段になっても変らない。「スーパー」という読み込み自体が現代的で新鮮だが、芭蕉の言う「不易流行」は、一行詩の精神でもある。私は獄中で次の一句を詠んだ。
満月やマクドナルドに入りゆく 角川春樹
獄中句集『海鼠の日』の中でも代表作と自負している作品。今回ののだめぐみのスーパー二句には、私の獄中での食に対する切実さはない。むしろ、作者本人の性格から来るあっけらかんとした明るさがこの句にも出ている。「買った冬」と「買ひ忘れたる冬」の一切具体的な物を出さずに抽象化したことによって、この二句が成功した。滝が氷って透明な夜になったり、人の日の椅子に孤独が坐っているよりも、遥かに新鮮な、そして手垢のつかない一行詩ではないか。のだめぐみが「魂の一行詩」に参加してまだ二年にも満たない。しかし、その感性とイメージの力は、従来の俳句では、許容されない、自由な心で、自由な言葉で一行詩の言葉の海を泳いでいる。 |
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| カーテンの向かふ春寒にゐる少年 岡本勲子
同時作に、
ニン月の落書き太平洋を流れけり
ATMの列に鬼来て豆を撒く
がある。作者は七十六歳。彼女のライバルは栗山庸子。栗山庸子が昨年の『河』新人奨励賞を受賞したことから発奮。今年、『河』同人に推挙したが、「私も『河』大会の壇上で新人賞を受賞したい」と言って、断ってきた。奨励賞ではなく、新人賞というところが凄い。つまり、二十五歳ののだめぐみや二十八歳の伊藤実那をライバル視しているのか。それにしても、今月号の「春寒にゐる少年」は凄い。今月号の『河』作品では、西川僚介の次の句と共に最高得点4を獲得した。
寂としてきのふがありぬ冬の水 西川僚介
句意は説明するまでもないが、作者は室内にいてカーテンを開けると、街路に春寒の少年が立っている、と言っているだけである。しかし、カーテン一枚の外と内とでは、まるで次元が異なるような世界。極端に言えば、あの世とこの世のような断絶感がある。カーテンは鉄の扉のような存在だ。春寒の少年のイメージは読み手によって、様々な想像が膨らむ。カーテンの内側は春で、外側は冬なのだ。私には、孤独な少年の姿が見える。イメージの力の強い秀吟。 |
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| ジャズの香のをとこと眠る冬の底 中戸川奈津実
同時作に、
氷柱の蒼き月光閉じ込めり
春の雪ねんねんころりは鬼の唄
があり、両句とも佳吟である。私が中戸川奈津実に注目したのは、『河』二月号の次の一句である。
冬三日月何をしてきた手だろうか 中戸川奈津実
『河』一月号で四句欄に初登場、わずかな期間で『河』作品の上位に定着した恐るべき新人である。『河』入会前に、すでに短詩型のなんたるかを学びとっていたように思われる。しかし、従来の俳壇の俳句的俳句とは異質で、「魂の一行詩」の運動を展開中の『河』こそ奈津実の立つ場所であった、といま私は理解している。
「氷柱」の一句は、中七下五の「蒼き月光閉じ込めり」が面白いが、「月光」を「時間」に替えたらもっと面白いかもしれない。次の形がそれだ。より抽象性が高まるからである。
夜の氷柱蒼き時間を閉じ込めり
「春の雪」の一句は、下五を「鬼の唄」としたことで句が一変した。それが成功したと言って良い。
「冬の底」の句は、三句の中で一番完成度が高い。「ジャズの香のをとこ」と言うだけで充分リアリティがある。確かに私の経験からも、それが言えるからだ。のだめぐみは「ASUKA」という芸名でデビューしたが、私が彼女をプロデュースすることになったのは、外資系のOLにも拘らず歌手の匂いがプンプンしていたからだ。しかし、この句が成功したのは下五の「冬の底」にある。「冬の底」の措辞は、読み手に様々な想像を与えることが出来る。冬の時代という言葉があるように、「冬」には暗くて苦しいイメージがある。しかも、更に「底」という表現だ。まるで救いようのない状況に作者とジャズメンが共存しているからだ。しかし、読み手はこの作品を「実」と取る必要はない。「詩の真実」として、この一句を眺めればよい。 |
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| 春めくやドロップ缶のまるい蓋 竹本 悠
同時作に、
あの時のニコンを磨き寒牡丹
があるが、昨年の『河』九月号に次の句がある。
朝顔市ニコンの中に父がゐる 竹本 悠
ニコンの所有者は、多分作者の父であろう。その父のニコンを磨いていると解すべきだ。下五の「寒牡丹」は被写体と考えられるが、冬の季節の花の象徴と解することもできる。
「春めく」の一句は、二月の東京例会で特選1秀逸1佳作4の総合点9を獲得した作品。中七下五の「ドロップ缶のまるい蓋」の措辞が、上五の「春めくや」を導き出した佳吟。 |
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| 寂としてきのふがありぬ冬の水 西川僚介
今月号の『河』作品で、岡本勲子の次の作品と共に最高得点4をとった秀吟。
カーテンの向かふ春寒にゐる少年 岡本勲子
西川僚介は過去に次の句を発表している。
とある日の花を買ひをり啄木忌
秋めくや空にありたる水のいろ
実力は充分にありながら、毎月の投句を欠詠しているのは、実に残念だ。「冬の水」の一句は、一月の「はいとり紙句会」の兼題「冬の水」で私の特選をとった。西川僚介一代の名吟と言ってよい。「冬の水」を導き出す上五中七の「寂としてきのふがありぬ」の措辞に舌を捲いた。「きのふ」という存在を「寂として」とは普通持って来れない。せいぜい「静かなる」か「静かにも」だ。言語に対する鋭敏な感覚がなければ生まれる作品ではない。 |
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| 柊挿し此の世を鬼がまはしをり 橋本知保
橋本知保は、『河』に入会してまだ二ヶ月にして「柊挿し」の一句で特選をとった。この句の手柄は一にも二にも中七下五の「此の世を鬼がまはしをり」の措辞にある。一般的には幻想的に思われるかもしれないが、そうではない。この世界を動かしているのは、まさしく鬼のごとき組織と人間である。私は自分の獄中体験を通して、そう断言出来る。それを橋本知保の感性が捉らえたことを評価したい。 |
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| 真夜中のシャワーを浴びてクリスマス 和田康子
あまたあるクリスマスの句の中で、この一句に強く惹かれた。上五中七の「真夜中のシャワーを浴びて」という表現の新鮮さに瞠目した。何故に真夜中のシャワーをクリスマスの晩に浴びているのか、正確には作者にしかわからない。しかし、はっきりしているのは、エロス(生命)の輝きである。シャワーを浴びているのが作者であると考える必要はない。従来の俳句は、一人称の文芸と考えられて来た。しかし、「魂の一行詩」はそうではない。一人称であろうが、三人称であろうが一向にかまわない。大事なのは「詩の真実」である。この句にセックスの匂いを感じるかもしれない。つまり「恋の句」或いは「愛欲の句」。それで結構ではないか。また、真夜中のシャワーを浴びているのが家族かもしれない。それも結構ではないか。この句が佳吟であるのは、一句のドラマ性にあるからだ。 |