魂の一行詩
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2008年4月号「月刊ランティエ。」掲載分  | メール一行詩 | 『河』作品抄批評 |
今月のアドバイス

日本文化の根源に詩歌あり

私は毎月、平成元年に亡くなられた恩師の剣道場で木剣を振っている。私が振る木剣は佐々木小次郎が使っていた木剣のレプリカで、通常の木刀よりも遥かに長く、重さも二倍ある。現役の剣道の国体選手でも一日に振れる量は千回程度だが、私の場合、二万一千回を超えている。親しい尼さんの白石慈恵さんが観音さまにチャネリングしたところ、人間のレヴェルを遥かに超えた領域に入っている、という。道場の後輩が恩師の遺品を整理していたら、私当ての遺言状が見つかり、私に届けてくれた。実に短い、しかし本質的な問題をわずか数行で集約した名文である。

歌は文の極みなり
舞は武の極みなり
文は義を究め
武は文を護るにあり
文を先んぜよ

私は恩師の一文に深く感動した。日本文化の根源に詩歌がある。詩歌こそ文芸の根幹である。武の本質は最終的に剣に行き着く。空手も合気道も最後は剣である。そして、剣は日本文化を護るために存在する。だからこそ私は、「魂の一行詩」に命を賭けているのだ。私の武道は舞である。武道は美しくあらねばならない。私は紛れもなく「いのち」と「たましひ」を込めて一行詩を創り続けてゆく覚悟だ。

もののふのわれもひとりや寒椿   角川春樹

「ランティエ」メール一行詩
ランティエにはメールや葉書で一行詩が多数よせられています。それらすべてに角川春樹が目を通し、選び、批評した作品群をここに掲載します。
特 選
背中より男の老いし竜の玉 曽根新五郎
閑居して風花の日となりにけり 秦 孝浩
クリスマス私の椅子はそこに無く 大谷元秀
標本の蝶がふたたび舞ふ時刻 島 政大
意にそはぬ事も始まり四日過ぐ 遠藤 稔
背中より男の老いし竜の玉   曽根新五郎

同時作に、

ひとつの訃より書きだせし新日記
セーターを脱ぐところからみられけり

がある。時とは残酷だ。紛れもなく男の歳は背中に現われる。下五の「竜の玉」が切なく、美しい。

> メール一行詩「特選」一覧
閑居して風花の日となりにけり   秦 孝浩

同時作に、

からからと振るや二月のマッチ箱
幾たびも挫折のありてしじみ汁

があり、特に「マッチ箱」の句が良く、「風花」の句と同レヴェル。「小人閑居シテ不善ヲ為なス」の格言を「風花」に転換させ、おのが人生を詠った佳吟。

> メール一行詩「特選」一覧
クリスマス私の椅子はそこに無く   大谷元秀

同時作に、

年移り午前一時の水を飲む
故郷は冬の風鈴鳴るのみで

があり、どの句も人生の哀感を詠った佳吟。

> メール一行詩「特選」一覧
標本の蝶がふたたび舞ふ時刻   島 政大

同時作に、

駄菓子屋のつぶれずにまだ一葉忌
キャバクラのネオン明滅する聖夜

があり、詠い方が多彩。「標本の蝶」の句は、幻想的で下五の「舞ふ時刻」で成功した。

> メール一行詩「特選」一覧
意にそはぬ事も始まり四日過ぐ   遠藤 稔

同時作に、

七草やパチンコ玉を無駄に打つ

がある。誰でもが思い当たり、共鳴できる句。

> メール一行詩「特選」一覧
秀 逸
早漏(そうろう)の桜日本に取り憑(つ)いて 富山敦史
夢の中で棺に眠っているのは私 古賀由美子
気をつけろ段差と格差前触れ無し 赤澤雄一
破壊せよ小さく言ひて去年今年 永島 証
ポテト食み青春つぶしているつもり 中田陽子
天皇が初夢で見た父の顔 山崎寿也
綿虫のあまた漂ふ開戦日 藤崎勝夫
光陰や海鼠(なまこ)の中のがらんどう 鶴岡一生
落書きのような雲だよ意味はない 八本正幸
雁の列鉄条網の空渡る 堀之内優樹
揺りかごのない子守唄を歌う 服部悦子
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『河』作品抄批評
雪女郎実はわたくし印度人 春川暖慕
数へ日のひと日ひと日を遊びけり 鎌田 俊
待春やガラスの壜の金平糖 滝口美智子
降誕祭孤独な象が水を飲む 松下由美
マティーニ飲む雪しんしんと海へふる 川越さくらこ
焼きたてのパンにはさんでゐる孤独 若宮和代
何に殉じ岸上大作冬の空 梅津早苗
そして又枯野の沖に人渉(わた)る 青柳冨美子
残りゐる聖樹に花舗の仕舞水 及川ひろし
短日やいくつの駅を通過する 菅城昌三
女正月ミラーボールが回り出し 石橋 翠
天と地より湧くシンフォニー初明り 西尾五山
聖樹の灯タバコの空箱照らしをり のだめぐみ
マルクスは遠き日のこと冬帽子 小川 孝
女正月ひとりで作るジンライム 竹本 悠
神還る「BARさくらこ」に立ち寄りて 西辻公臣
雪女郎実はわたくし印度人   春川暖慕

「獏枕」と題する同時作に、

やがてみな消えゆくものを冬銀河
うつくしき師走の空のありにけり

があり、両句とも佳吟。「師走の空」の一句は、シンプルにして立ち姿も良い。春川暖慕は、作者と生地を同じくする良寛に繋がる温かさと大らかなユーモアをもつ作家だが、今回の「雪女郎」句は、文句なく笑える作品。私は、この句を思い出す度に吹き出してしまう。魂の一行詩は、現代俳句が近代意識の中で捨てた「笑い」を重要視しているが、『河』の中でユーモア句として成功しているのは、春木太郎、丸亀敏邦、斎藤隆顕、大多和伴彦、及川ひろしといった男性陣が圧倒的に多い。詩人の飯島耕一氏は、ある座談会で次の発言をしている。

僕は俳句というものは滑稽ということが基本にあるべきだという考えをずっと持っていまして、極端にいうと滑稽でない俳句なんか何ものであろうかという(笑)。絶えずいろんな意味での笑いと滑稽がないと俳諧ではないんじゃないか。俳諧は江戸の昔から必ず笑いを内包しているものでね。

飯島耕一氏の発言を、よく噛みしめて頂きたい。私は一行詩集を出す度に、必ずユーモア句を収録してきた。次の二句は、私の最近作である。

煤払ひこんなところにコンドーム   角川春樹
宝舟敷きて地獄に行きにけり   同

> 『河』作品抄批評一覧
数へ日のひと日ひと日を遊びけり   鎌田 俊

「げんまん」と題する同時作に、

いつぽんの葉巻をえらび年忘れ

がある。「年忘れ」は、十二月の「はいとり紙句会」の兼題で、例句としては、

ひそやかに女とありぬ年忘   松根東洋城
にぎやかに河豚食うて年忘れけり   森 澄雄
紙ひとり燃ゆ忘年の山平   飯田龍太
薬のむ水かたはらに年忘れ   吉本伊智郎

がある。私の当日の句は、次の通りである。

忘年のたとへば雨の神楽坂   角川春樹
忘年の指より昏れてゆきにけり   同

鎌田俊の句は、全く類例のない佳吟。実はこの作品、吉祥寺のバー「WOODY」で私が葉巻を選んでいる景である。煙草を吸わない鎌田俊が、ドライマティーニを飲みながらシガーを吸っている私を一句にしたかったと言う。上五中七の「いつぽんの葉巻をえらび」の措辞が抜群に新鮮。一方、「数へ日」の句は、私の一行詩集『角川家の戦後』の、次の一句を踏まえてであろう。

数へ日のひと日ひと日の夕ごころ   角川春樹

私の「数へ日」の句は、平成十四年十二月の八王子医療刑務所に入所中の作品である。だが、鎌田俊のこの句の眼目は、下五の「遊びけり」にある。私の「数へ日」の下五の「夕ごころ」とは、決定的に異なっている。「遊び」ということについて、森澄雄さんが次のように書いておられる。

俳句は十七文字に季語を入れた小文芸と思いがちだが、虚空とともに、永遠に流れて止まぬ時間、今の一瞬に永遠を言いとめる大きな遊びである。我を捨てる遊びである。芭蕉も『笈の小文』の中で「造化にしたがい、造化にかへれ」と言っている。遊びと言えば日本人は軽んじがちだが、老子も「学を捨つれば憂ひなし」と言い、荘子も遊心を重んじ、孔子も遊びを人生至上の境地とした。古代中国の大きな思想である。 (『新・澄雄俳話百題』下巻より)

同感である。勿論、若い鎌田俊がすでに「遊び」の思想を体得した上での作品ではない。しかし、作品が作者を離れて鑑賞される以上、この句は鎌田俊の「我を捨てた遊び」と解釈すべきであろう。この観点に立って言うならば、今月号の『銀河集』の中で、唯一の最高得点4をとった、鎌田俊の一代の名吟と断言したい。

> 『河』作品抄批評一覧
冬の空今日に閉ぢ込められてゐる   若宮和代

二月の『河』東京例会で出席者からの最高得点を、そして選者全員から特選、並びに秀逸を獲得した作品。句意は説明するまでもないが、中七下五の「ガラスの壜の金平糖」の措辞が鮮やか。赤・青・黄色の金平糖の色彩感がガラスの壜から直接読み手に伝わり、詠み手と読み手に季語の「待春」の感情が共有される。俳句歳時記のどの例句にも負けない秀吟である。「映像の復元力」の効いた一行詩。

> 『河』作品抄批評一覧
降誕祭孤独な象が水を飲む   松下由美

同時作に、

この枯野行けば父なる沖がある
ある街のパン屋に年の暮れゆけり
止り木にマッチを擦つて年ゆかす
女正月何も語らぬ椅子にゐる

があり、全て佳吟である。投句の五作品が全て特選となり、尚かつ「降誕祭」の一句で、今月号の次の二作と共に『半獣神』の最高得点4を獲得した。

マティーニ飲む雪しんしんと海へふる   川越さくらこ
短日やいくつの駅を通過する   菅城昌三

松下由美が最高得点4をとったのは、昨年の『河』七月号の次の句以来である。

メーデーや深夜のコインランドリー   松下由美

また五句の投句で総合点16をあげたのは、昨年の『河』六月号で堀本裕樹が、次の句をはじめとする作品五句で総合点16をあげて以来でもある。

黒いゴミ袋に梅が散つてゐる   堀本裕樹

「枯野」の句は、松下由美のテーマである「幻の父」であり、「女正月」の句は彼女のモチーフである現在地を示す「椅子」が使われている。「年ゆかす」の句は、松下由美の職場である銀座のバー「しゃんく」の身辺詠として成功した。今回、変化を見せたのが、一月の「はちまん句会」の特選をとった次の句だ。

ある街のパン屋に年の暮れゆけり   松下由美

どの街であるかは読者の想像に委ねられ、その街のパン屋で年が暮れたと言っているだけだが、実に内容の深いしみじみとした一句で、私は山口奉子の次の代表句と並ぶ作品と判断している。また、「降誕祭」と比べても全く遜色ないどころか、上であるかも知れない。

長き夜の東京駅で待ち合はす   山口奉子

山口奉子の「長き夜」も、松下由美の「年の暮」も、季語が、威張っていない。これを純粋季語という。つまり一句の中で季語が自己主張することなく、さりげなく置かれていることを指す。このような作品は作ろうとして出来るものではない。ある日、ある時、ふいに頭に浮かんだ作品。当然ながら、作者には創ろうという意識はない。この句も、松下由美の代表作である。「降誕祭」の句の背景には、次の私の句がある。

街に雪象のハナ子の孤独な日   角川春樹

初代の象のハナ子は、戦後間もなく、敗戦に打ち沈んでいた日本に、インドのネール首相から贈られた。松下由美の象も、このハナ子を指している。松下由美の作品が素晴らしいのは、上五の「降誕祭」の「晴」に対する、中七下五の「孤独な象が水を飲む」という「褻け」である。つまり、俳句で言うところの「もどき」である。一茶の次の作品が、その「もどき」の代表句である。

春雨や喰はれ残りの鴨が鳴く   一茶

一茶の代表句に対して、松下由美の句が現代的であるのは当然だが、この句は前述の堀本裕樹の作品と同様に、「乾いた抒情」の代表句と言ってよい。

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マティーニ飲む雪しんしんと海へふる   川越さくらこ

同時作に、

大寒の夜をきしませ来る人よ

があり、この句も佳吟である。だが、「雪しんしん」の句は、最高点4をとった、昨年の『河』七月号の次の作品以来である。

葉桜やホステス急募のドア開ける   川越さくらこ

川越さくらこは、松下由美同様にバー「さくらこ」の経営者。「雪しんしん」の句の上五の「マティーニ飲む」に句の勢いがある。そして中七下五への「雪しんしんと海へふる」と畳みかけるスピード感がある。マティーニを飲んでいるのが、作者であろうが第三者の男であろうが、どちらでもドラマ性は成立する。海の見えるガラス張りのバーで作者ないしは中年の、或いは少老の男がマティーニを飲んでいる。海の見えるバーは、多分、ホテルの最上階。海の上には、先ほどから雪がしんしんと降り続けている。カクテルの中でもマティーニは男の飲み物。作者の恋人と想像したい。音もなく海へ落下する雪を見つめる二人の時間が読み手に伝わってくる。ふいに私の脳裏に高屋窓秋の次の一句が浮かんだ。

ちるさくら海あをければ海へちる   高屋窓秋

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焼きたてのパンにはさんでゐる孤独   若宮和代

同時作に、

牡蠣鍋や夜のはりつく硝子窓
元日や音なく使ふ昼の水

があり、特に「牡蠣鍋」の句が良い。中七下五の「夜のはりつく硝子窓」の措辞が適確で「映像の復元力」が効いている。だが、今回は敢えて季語のない「焼きたてのパン」をとりあげる。作者には昨年の『河』十二月号に次の句がある。

皿一枚洗つて眠る良夜かな   若宮和代

昨年、母親を失い、さらに娘を嫁がせた作者は、満月の夜だからとはいえ、特別な行事をする訳でもなく、一人分の食事の皿を一枚洗って眠るという日常の延長でしかない。しかし、その日常の中にこそ詩は潜んでいる。今年の『河』一月号の次の作品も同様である。

ドアノブに冬の来てゐる木曜日   若宮和代

「魂の一行詩」は俳句ではない。「たましひ」と「いのち」を詠う現代の抒情詩である。季語があるのかないのかを問う前に、若宮和代のこの句のどこに季語が入る余地があるのか。大事なのは、季語のあるなしの下らぬ幼稚な有季定型論ではなく「詩の真実」こそ問わねばならないということである。伝統俳句を主張する似非詩人からは、一度として私の意見に対してまともな反論がされたことがない。若宮和代の日常吟のこの句は、焼きたてのパンにはさんでいるのが、ハムでも、彼女の好きな茹で玉子でもなく、孤独という一点にある。十二月の「しゃん句会」で最高得点をとった若宮和代の句を、有季定型という色眼鏡を通さずに、直に味わってもらいたい。

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何に殉じ岸上大作冬の空   梅津早苗

同時作に、

木枯にわがトラウマを吊しけり
風花の駅に常夜(とこよ)の父待てり

があり、特に「木枯」の句が良い。作品としては、「冬の空」より「木枯」のほうが上だが、今回は敢えて岸上大作を詠んだこの句をとりあげる。秋山巳之流の『うたげ』に、次の一句がある。

敗戦忌岸上大作展にあり   秋山巳之流

この句には、次の詞書がある。

三百枚の岸上大作論を書き下すが編集長は原稿と金をもって逃亡。

昭和三十五年四月、私は國學院大学国文科に入学したが、私を待っていたのは六〇年の安保闘争とボクシングだった。その年の十二月の初旬、大学に行ってみると、朝から校内は大騒ぎだった。学生歌人の岸上大作が自殺したのだ、という。岡野弘彦氏の弟子である秋山巳之流が、最初に読んだ短歌が岸上大作であった。私が國學院大学一年生、秋山が二年生の時である。

血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする   岸上大作
汗わきくる掌は自らの手につかみながらもう不用意な告白はあらぬ   同

昭和三十五年十二月五日朝、岸上は服毒自殺した。安保闘争に挫折し、連続的な失恋の後に、岸上は謎の遺書を残し久我山の下宿で薬を飲んだ。歌人の福島泰樹は、絶叫コンサートで今も岸上を歌い続けている。

岸上大作は謎の死を遂げたことで、寺山修司とは別の意味で、ある種の永遠性を獲得した。梅津早苗が岸上大作を詠んだのも、この謎の自殺にある。岸上大作の遺書、日記、短歌は、吉本隆明氏の小論がつけられ、『意志表示』の題で出版されている。上五に「何に殉じ」とあるのは、この謎の自殺である。また、下五の季語「冬の空」は、十二月五日の忌日を踏まえてである。私は岸上大作の作品を多くの人に読んでもらい、また詠んでもらいたいがために、梅津早苗の今月号の投句からこの句を選んだ。

悴みて岸上大作のゐる渋谷   角川春樹

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そして又枯野の沖に人渉(わた)る   青柳冨美子

同時作に、

十二月赤いグラスをふたつ買ふ
透明なエレベーターゆく冬銀河

「枯野」の句は、十二月の「はちまん句会」の兼題で、出席者は次の投句をした。

いずれゆく枯野の沖に光あり   角川春樹
この枯野行けば父なる沖がある   松下由美
枯野宛年賀状届きますか   蛭田千尋
新宿西口枯野行てふバス探す   石橋 翠

青柳冨美子の「枯野」の句を、私は特選にとった。理由は、上五の「そして又」にある。沖を渉るものは死者である。そして、枯野もまた、死に限りなく近いイメージがある。私の句も、松下由美の句もそうだ。私の句には、「秋山巳之流」という前書がある。青柳冨美子の下五「人渉る」は、生者であれば「人渡る」であろう。渉るとは、上空を移動することだ。例えば、鳥、太陽、月などだ。勿論、大海を渉るという措辞もあるが、詩歌の場合、概して死者に用いられる。つまり、上五の「そして又」は、次々と死者が枯野の沖を渉っていくのだ。詩的イマジネーションの鋭い一句。

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残りゐる聖樹に花舗の仕舞水   及川ひろし

同時作に、

行く年の還らざるもの谺する
初明り水銀灯の青い孤独

がある。十二月の「はちまん句会」の兼題が「クリスマス」であった。前述の松下由美の次の代表句も、当日の投句であった。

降誕祭孤独な象が水を飲む   松下由美

一方、メルヘンチックな私の次の句は、佳作が1点入っただけであった。

星空のなかへ聖夜の燐寸の火   角川春樹

私は及川ひろしの「聖樹」の句を特選にとった。句の背景は、クリスマス・イヴの街の花屋だ。売れ残った聖樹に、花屋の主人が今宵最後の水を注いでいる。この聖樹も明日中に売れなければ、処分するしかない。そんな思いで、しかし愛情を込めて水を注いでいる。生きものである花も樹も、単なる商品ではない。しかし、売れ残った花も樹も処分しなければ、次の樹も花も並べることは出来ない。及川ひろしの句には、いつも都会人のペーソスが滲んでいる。

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短日やいくつの駅を通過する   菅城昌三

今月号の『半獣神』の中で、次の二句と並んで最高得点4を獲得した作品。

降誕祭孤独な象が水を飲む   松下由美
マティーニ飲む雪しんしんと海へふる   川越さくらこ

サラリーマンのペーソスを詠むという点では、菅城昌三は『河』という結社の中で、一番の名手といってさしつかえない。過去の作品からあげると、

白き靴水曜といふ静けさに
人といふノイズの中の熱帯夜
愛鳥日一リットルの水を買ふ
割り算の余りにも似て春寒し

等、いくつも句をあげることが出来るが、今月号の「短日」の一句は、わけても出色の作品。私もサラリーマン時代、京王線の桜上水から新宿駅に出ると、小田急線の箱根行を見る度に、会社に出勤せず、このまま箱根行に乗ってしまいたいという誘惑に、何度もかられた。或いはこのまま家を出て、蒸発してしまおうかとも思ったものだ。ただし、私の場合、ほんとうに蒸発して飛行機に乗り、サハラ砂漠やパレスティナのゲリラ・キャンプや、麻薬三角地帯のゴールデン・トライアングルのゲリラ部隊に身を投じてしまった。しかし、気弱で伏目がちの菅城昌三は、そうすることが出来ない。通勤する満員電車の中で、通過する駅を眺めているだけである。しかし、それ故に誰もが共感する日常吟が自然に生まれてくる。今月号の「短日」の一句は、菅城昌三の一代の名吟と言ってよい。

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女正月ミラーボールが回り出し   石橋 翠

同時作に、

新宿西口枯野行てふバス探す
吊り皮にぶらさがったまま年逝かす
龍の玉ずっと淋しかったわけじゃない
女正月コンビニ弁当あたためて

があるが、これらの句も寂寥感に満ちている。今年の一月、木剣を振るために伊勢の神武参剣道場に出かけた折、タクシーの中から風雨によって文字のかすれた看板を見た。その看板にはディスコと書かれてあった。今どきディスコに客が来るのは、地方都市ぐらいだろう。いずれ今のカラオケもそうなるに違いないが、石橋翠の「女正月」にあるミラーボールが回る景と言えば、ディスコかキャバレーを思い浮かべる。女正月とあって、女同士が連れ立って出かけても、せいぜいディスコかカラオケぐらいだろう。或いは居酒屋か。ミラーボールが回り出す侘しい場所に女正月の女達を連想するのは、ペーソスというよりユーモアに近い。もう一句の「コンビニ弁当あたためて」にいたっては、むしろ読み手が悲しくなる。しかし、「女正月」の季語にあって、類例のない佳吟を石橋翠は生みだした。

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天と地より湧くシンフォニー初明り   西尾五山

一月の「はちまん句会」の兼題が「初明り」。句会の参加者のほとんどが、西尾五山のこの句を特選ないし佳作に選んだ。今年の元日は、雲一つない群青の空で、見あげている内に音楽が聴こえてきた。その音楽は、人によって、クラシックであったり、シンセサイザーの美しい旋律であったり、場合によってはジャズであったりするであろう。

音楽が押し寄せてくる初御空   角川春樹

私は西尾五山の天と地を言祝(ことほ)ぐこの句を眺めた時、ドボルザークの新世界が聴こえて来た。私が特選にとり、そのことを指摘すると、西尾五山の答えは、「その通りです。ドボルザークの新世界です」であった。常々私が言っていることだが、一句の鑑賞は作者の心に添って感じとらなければならない。西尾五山の新年を言祝ぐ大きな詩心を、選者は汲みとらなければならない。そうすることによって、作者の感動を読み手も共有出来るからである。久々に見せた西尾五山の句柄の大きな佳吟。

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聖樹の灯タバコの空箱照らしをり   のだめぐみ

同時作に、

モノクロの冬を抱きしめ此処にゐる
ゴミ箱を蹴つて孤独なクリスマス
見えぬもの袋につめて年逝かす

十二月の銀座「卯波」での「はいとり紙句会」は、のだめぐみが特選・秀逸・佳作のほとんどを独占してしまった。メンバーの大多和伴彦がいみじくも言ったように、この日は「のだめ祭」だった。十句の投句の中でも、「聖樹の灯」の一句は当日の最高得点を獲得した。クリスマス・ツリーの点滅するあかりが煙草の空箱を照らしているという発想は、本来、大人の男のものだ。だが、歌手・ASUKAとして作詩を手がけている作者・のだめぐみにあっては、おのれ自身の経験や体験を詠むだけでは足りないのだ。だからある時は大人の男性の屈折を、またある時は少年のナイーブな心を詠うことが必要になってくる。例えば、『河』二月号の次の句だ。

ぼくたちは生きて枯葉となりにけり
クリスマス・イブ何か失ふ僕がゐる

二句とも、少年の魂の脆(もろ)さを詠っている。歌手であるASUKAは煙草を喫わない。だから「聖樹の灯」は、作者の自画像ではない。だが、喫煙者も、喫わない者も、句会参加者全員の共感を得たのである。つまり、詩の真実ということ。詩は理知ではない。感動なのだ。都会生活者の寂寥感に、多くの人の心が共振れを起したのだ。「実よりも虚のほうが大きい」という「魂の一行詩」の精神を、のだめぐみの中ですんなり受け入れた結果である。

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マルクスは遠き日のこと冬帽子   小川 孝

同時作に、

革マルの彼女が死んだ冬かもめ
枯野ゆく全共闘の貌をもち
プチブルのたしなみひとつ温め酒

今月の『河』の作品に、東京中央支部の句会で投句された次の句に感銘した。作者が東大安田講堂の終焉を目撃して以来、いつの日か一句に詠もうとしてきた景である。

安田講堂一月空の青さかな   小林政秋

小林政秋は五十八歳。小川孝は少し上かもしれないが、多分、ふたりとも同時代に呼吸していたはずだ。昭和三十五年、國學院大学に入学した私は、右翼にも関らず六〇年安保闘争のデモに連日加わっていた。可笑(おか)しなことに、デモの後はボクシング・ジムで激しくリングで闘っていた。マルクスもレーニンも一通りは読み、トロツキーに、後にはチェ・ゲバラに共鳴した。小川孝とは明らかに世代が違うが、私はパレスティナのゲリラ・キャンプにも一時身を置いた。時とは、ある種ひどく残酷である。小川孝の「冬帽子」の一句も、複雑な思いで何度も読み返した。

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女正月ひとりで作るジンライム   竹本 悠

一月の「はちまん句会」の兼題が「女正月」だった。その時の高得点句が次の作品群である。

寂寥といふ水脈(みお)のあり女正月   角川春樹
女正月ミラーボールが回り出し   石橋 翠
琴弾かぬ月日を思ふ女正月   青柳冨美子
小正月椀にちひさき鯛の鯛   及川ひろし
女正月何も語らぬ椅子にゐる   松下由美

中でも竹本悠の「女正月」に、点が集中した。「女正月」の季語に対して、中七下五の「ひとりで作るジンライム」は自祝の句。そして俳句歳時記の例句と比較すると、まさに現代的であり、かつ新鮮。多くの参加者から支持されたのも当然であろう。実はわたくし、この女正月の晩、ひとりでジンライムを作って飲んでいた。

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神還る「BARさくらこ」に立ち寄りて   西辻公臣

西辻公臣の「BARさくらこ」は、今月号の次の句で一句の最高点をとった川越さくらこの店である。

マティーニ飲む雪しんしんと海へふる   川越さくらこ

「神還る」とは、旧暦十月の晦日(みそか)、神々が出雲の旅から帰るのを迎える行事である。『河』一月号に、吉川一子の次の一句がある。

神還る日の駅蕎麦を吹いてゐる   吉川一子

多くの例句が自然諷詠であるのに対して、吉川一子の場合は人間諷詠。駅蕎麦を吹いているのは、作者の吉川一子だが、まるで神そのものが駅蕎麦を食べて地元に帰るような景である。西辻公臣の句も同様で、神が帰る前に、ちょっと「BARさくらこ」に立ち寄って焼酎かウィスキーの水割りを呑んでいる景だ。神道の根本原理は、「神はわれなり。われは神なり。神われと共にあり」である。つまり、人間は神なのだ。神である作者が家に帰る前に、「BARさくらこ」に立ち寄った、ということである。吉川一子同様にほのぼのとしたユーモアの一句。この句の眼目は、中七の「BARさくらこ」の固有名詞が抜群に効いていることだ。「BARさくらこ」によって、作品に手触りがあるからだ。もっとも、家に帰れば、別な神が待っているのだが……。

※この号の本文は、讀賣新聞の連載と角川春樹主宰の『河』4月号に掲載したものから加筆再構成したものです。
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