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| 『河』作品抄批評 |
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| 陸を吹く風ぼろぼろに冬耕す 石工冬青
「冬耕」と題する同時作に、
柚子の黄に月の片鱗剥がしたる
があり、この句も面白い。だが「冬耕」の句は、石工冬青の一代の名吟。今月号の『銀河集』の中で唯一の最高得点4を獲得した作品。中七の「風ぼろぼろに」の措辞に私は驚嘆した。勿論、ぼろぼろは下五の「冬耕す」にかかるが、大地をぼろぼろにして耕すのではない。風がぼろぼろになって吹いているのだ。だから上五にわざわざ「陸を吹く」と持って来たのである。風土俳句の傑作と断言できる秀吟。 |
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| ラグビーの空に余熱のありにけり 松下由美
同時作に、
ゆく秋や点滅したる非常口
とある日の思慕のごとくに初時雨
卓上の人参ひとつ日暮ゐる
冬の空いつかの雲の流れをり
があり、「初時雨」と「人参」の句が良い。両句とも、日常の中の静かなドラマが一行詩として成立した。一方、「ラグビー」の句は十一月の「しゃん句会」の兼題で多くの特選を採った。句意は説明するまでもないが、ラグビーの試合の終わった後の、選手と観客の興奮がまだ余熱のように、試合場の上空に漂っている、ということ。中七の「空の余熱」を発見したところが手柄である。俳句歳時記のどの例句と比較しても、少しも遜色がない。 |
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| 冬の空今日に閉ぢ込められてゐる 若宮和代
同時作に、
夜の底のラジオに冬の周波数
手袋で拭ふ始発の窓ガラス
冬蝶や日の差してゐる水たまり
があり、全て佳吟である。「ラジオ」の句は、詩的感性の鋭いインパクトのある句だし、「手袋」の句は始発の列車の窓ガラスの曇った景を、上五中七にかけて「手袋で拭ふ」という動作は、誰にでも体験のある的確な措辞だ。一方、「冬蝶」の句は十二月の中央支部の句会で、私だけが特選に採った作品。あとは佳作が4点だった。選者は作者の心に寄り添って作品鑑賞することが肝要だが、句会という限られた時間の中では、往々にして見落とすこともあろう。だが、短時間で作品の価値を見抜く修練も、選者ともなれば課せられてくる。若宮和代の「冬蝶」の句に話しを戻すと、中七下五の「日の差してゐる水たまり」という措辞は、作者の寂寥感の具象化として表現されている。いわば、透明な哀しみが伝ってくる。そして、上五の「冬蝶」だ。日の差している水たまりを求めて来た冬蝶は、写生でも写実でもない。冬蝶は魂の象徴として選択された言語である。古代において鳥や蝶は死者の魂を運ぶものとして信じられてきた。また蝶は、古代中国において次元を超える存在とも考えられていた。作者が若宮和代と知った段階で、作者が昨年、母堂を失っていることが思い出される。仏教においても、古代の呪術においても、死者は水を求めると考えられ、螢などは死者の魂と最近まで信じられていた。冬の透明な光と水を、若宮和代の亡くなった母親が蝶の姿となって戻ってきた、というのがこの句の背景だ。日常の中に詩を発見する作者の美しい幻視の一句。文字通り「魂の一行詩」なのである。
なお「冬の空」の句は、中七下五の「今日に閉ぢ込められている」という作者の把握が素晴らしい。一句の作品の力は、「冬蝶」よりも「冬の空」のほうが上である。また完成度も高い。 |
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| 食堂でハーモニカ吹くレノンの忌 小林政秋
同時作に、
深海の魚食べてゐる十二月
がある。前にも述べたことだが、レノン忌を俳句の季語として作品にしたのは、昭和五十七年九月二十八日刊の私の第二句集『信長の首』が最初であった。いわば私がレノン忌を俳句に季語として定着させた。その後、『河』の若手がレノン忌を季語として作句し、いつのまにか俳壇に広まり、俳句歳時記に季語として収録されていないにもかかわらず、季語としてひとり立ちするようになった。句集『信長の首』に収録されたのは、次の句である。
― ジョン・レノン一周忌 ―
レノン忌の闇深くなる神楽殿 角川春樹
一行詩集『角川家の戦後』では、次の句がある。
レノン忌の冬の夜空に発砲す 角川春樹
最近作のレノン忌となると、次の作品がある。
誰が撃ちし薬莢拾ふレノンの忌 角川春樹
靴底で消す煙草火やレノンの忌 同
『河』の今月号の中でも、多くの作家がレノン忌を季語として使用している。例をあげると、
雲の上雲の走れるレノンの忌 石工冬青
どこからか真夜の遠吠えレノンの忌 大森理恵
カプセルに男置き去るレノンの忌 梅津早苗
しかし、今まで私の見えている範囲の中では、小林政秋のレノン忌が代表作であり、また本人の作品としても代表句であると断言できる。十二月の『河』中央支部の句会で、私が特選に採った他は、並選2点だった。何度も述べていることだが、選者は身の丈で選句してはならない。私が小林政秋の「レノン忌」を採り上げなかったならば、この秀吟は日の目を見ることがなく、誰にも記憶されることはないことになる。小林政秋の「レノンの忌」が何故優れているかと言えば、この句こそ乾いた抒情詩だということ。第二点は現代性である。食堂が大学であるのか、軍関係の施設であるのか解らないが、企業ではあるまい。私はアメリカの軍事施設の食堂をイメージした。中年の兵士がハーモニカでジョン・レノンの「イマジン」を吹いている景だ。つまり、この一行詩は、映像的な想像力を喚起させる言葉の力を持っている。ハーモニカを吹く場所として、上五の「食堂」は抜群のイメージを喚起させる。バーでもクラブでも駄目だ。そして下五の「レノンの忌」は、これ以上の季語は考えられないくらいにピタリと納まっている。例えば、「開戦日」でも「原爆忌」でも「終戦日」でもない。小林政秋の「レノンの忌」は、五七五の言葉が緊密であり、危機感を孕む一行詩に仕上がっている。 |
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| 歳晩のベビーホテルの扉を開ける 梅津早苗
同時作に、
カプセルに男置き去るレノンの忌
夕凍みの男に帰る孤島あり
があり、両句とも昨年十二月十三日に行なわれた札幌支部の句会で特選に採った作品。「レノン忌」の男と「夕凍み」の男の位置は正反対である。「カプセルに」とは、カプセル・ホテルのことだろうが、文字通りカプセルの中に男を置き去りにしたほうが詩的イメージが拡がる。一方、夕凍みの男は作者と共有した時間から離れて、家庭という孤島に帰ってゆく姿を詠んだ。男と作者の悲哀が一句に認められている。両句とも、「虚」でもあり「実」でもあるが、大事なのは「詩の真実」という一点である。また、「レノンの忌」の句にはユーモアがあり、「夕凍みの男」にはペーソスがある。かつて瀬戸内晴美(寂聴)氏のエッセイに、どんなプレイ・ボーイも年末は家庭に帰ってゆくとあり、私は自分の身に置き換えて身につまされたことがある。「歳晩」の句は、中七下五の「ベビーホテルの扉を開ける」という発想が面白い。正しく取り合わせの妙である。芭蕉が「発句とは取り合わせの妙」と看破したように、魂の一行詩においても、佳吟は取り合わせの妙に尽きる。かつて後藤兼志氏が『河』賞を受賞した大森健司を批判して「取り合わせ」だと論評したが、一行詩もまた取り合わせであるという考えからすれば、後藤兼志氏は芭蕉の俳文集も読まない、即ち古典を知らない自称俳人ということになる。話しを梅津早苗の作品に戻すと、この句も現代の乾いた抒情詩ということ。また釈迢空の言う「無内容」の良さがある。読者は歳晩のベビーホテルのドアを開ける梅津早苗の景を思い浮かべればよい。 |
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| なめこ汁けふのひと日を腑に落とす 丸亀敏邦
同時作に、
初しぐれ洋菓子店の白き椅子
があり、両句とも十一月の「はいとり紙句会」の特選に採られた作品。「なめこ汁」は兼題だったが、銀座「卯波」で行われた句会の最高得点を採った。俳人の鈴木真砂女さんが銀座の路地に開店した「卯波」は、銀座の再開発で一月二十五日をもって五十年の歴史を閉じた。鈴木真砂女さんと言えば、私との長い交流があり、次の代表句が思い出される。
鮟鱇鍋路地に年月重ねたり 鈴木真砂女
土地の再開発で、銀座の路地そのものが消えることになった。
鮟鱇鍋真砂女の路地の消えゆけり 角川春樹
丸亀敏邦の「なめこ汁」に句会の人々が感銘したのは、中七下五の「けふのひと日を腑に落とす」の措辞だ。なめこ汁と共に今日という一日を胃の腑に落とすという表現は、俳句歳時記の全ての例句を凌ぐ秀吟。高桑闌更は次の代表句によって「枯芦の闌更」と称されたという。
枯蘆の日にく折れて流れけり 闌更
丸亀敏邦は「なめこ汁」に仮託して人生の深い感懐を一句に詠み、これによって「なめこ汁の丸亀」と称されるようになった。これはウソ! |
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| 十二月八日コンビニは眠れない 鈴木季葉
同時作に、
帰り花戸籍にいちど人の妻
があり、この句は胸を打った。例句としては、
返り花咲けば小さな山のこゑ 飯田龍太
返り咲く花を水音逸れてゆく 原 裕
人ごゑの遠のきゆくや返り花 角川春樹
きのふありけふまた別の帰り花 島谷征良
があるが、俳句歳時記の例句と比べても少しも遜色がない。私は十二月の「しゃん句会」で次の投句をして、多くの出席者から特選を採った。
寒椿いのちを運ぶ詩を欲りぬ 角川春樹
鈴木季葉の「返り花」の一句は、おのが「いのち」を乗せた作品である。一方、「十二月八日」の句は、十二月の札幌支部の句会に発表された。十二月八日の例句としては、堀本裕樹の次の代表作がある。
十二月八日ドアが開けつぱなしだ 堀本裕樹
3冊目になる一行詩集『飢餓海峡』には、次の私の句がある。
十二月八日赤い電話が鳴つてゐた 角川春樹
昭和五十五年五月八日、私が隊長を務める野性号三世が伊豆の下田を出航し、十二月八日、チリのバルパライソ港に到達した。その日、上陸して乗ったタクシーのニュースに私は一驚した。ニューヨークのダコタハウスでジョン・レノンが射殺されたのだ。だから十二月八日の開戦日は、私にとってはジョン・レノンの死のほうがインパクトが強い。十二月八日の例句を更にあげると、
十二月八日の朝寝朝湯かな 春木太郎
十二月八日象のハナ子の孤独かな 青木まさ子
がある。鈴木季葉の句は、春木太郎と同様の人間諷詠であり、現代社会に対する諷刺も含まれている。十二月十三日に行われた句会では、私の選は佳作であった。しかし、今回の投句をつくづくと眺めてみると、不思議なほど鈴木季葉のこの作品に惹かれ、佳吟として採り上げることにした。句会の席上では佳作だった作品が、後に批評の対象になる例は他にもある。 |
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| そうだそうだ赤い手袋買いにいこ 中西史子
同時作に、
ロシアンティー吹いて天皇誕生日
がある。十二月の札幌支部の句会では、中西史子の次の句に注目した。
返り花記憶の底のオイディプス 中西史子
『河』の平成十九年一月号から十二月号までの、一年間の中西史子の軌跡をたどってみることにする。
尊厳死させて下さいいぼむしり 『河』一月号
十二月八日沖のサーファー立ちあがる 〃二月号
丹頂鶴の恋のはじめは身をそらす 〃三月号
地吹雪や迷つていたる吾がクローン 〃四月号
顔パックゆつくり剥す朧かな 〃五月号
五番街のマリーのその後桜東風 〃六月号
抜け道を探し憲法記念の日 〃七月号
炎昼や吾にはじまる光合成 〃八月号
こんな夜は螢袋の中で寝よか 〃九月号
行く夏や白い鎖骨に白い雨 〃十月号
かなかなのまた初めからかなかなかな 〃十一月号
蚯蚓鳴く私の帰る灯のありぬ 〃十二月号
一年間の作品を通読してみると、「桜東風」「行く夏」「かなかな」が特に良い。しかし、今月号の「赤い手袋」は、更に上を行っている。上五の「そうだそうだ」に五文字の勢いがあり、中七下五の「赤い手袋買いにいこ」に意表を衝かれた。一句全体が新鮮で一行詩としての魅力に富んでいる。札幌支部の中堅として、更なる跳躍の可能性が感じとれる作品。 |
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| 誰もゐない何もない夜の皮手袋 のだめぐみ
同時作に、
ぼくたちは生きて枯葉となりにけり
ちらばる冬あつめて海に還しけり
遠火事や父母ゐる空のありどころ
クリスマス・イヴ何かを失ふ僕がゐる
があり、「枯葉」「ちらばる冬」は十一月の銀座「卯波」で開かれた「はいとり紙句会」で、私とe原悠貴が特選に採った。「遠火事」の句も丸亀敏邦の特選と私の秀逸を採った。「遠火事」の句は、昨年の『河』作品抄に選ばれた次の作品の延長線上にある。
父とか母とかどこかに浮んでゐる二月 『河』五月号
のつぺらな家族が浮かぶ蜃気楼 〃六月号
父といふ日が足もとに転がつてゐた 〃九月号
両親と訣別したのだめぐみにとっても、父母に対して無関心という訳でもない。遠くの火事空を眺めている時、ふいに脈絡なく両親が今どこに住み、何をしているかが突然気になり始めた。その思いが中七下五にかけての「空のありどころ」であろう。
一方、「クリスマス・イヴ」の句は、一九六〇年代のニューヨーカー派の作家たち、とりわけサリンジャーやアップダイクの主人公の独白のような一行詩。「枯葉」の句も同様である。また「ちらばる冬」の意表を突いた表現は、中七下五の「あつめて海に還しけり」という、いかにも作詩家らしい着地を見せた。これが「のだめ」調なのだ。しかし、「皮手袋」の一句は全く違う。今まで彼女に見られなかった乾いた現代の抒情詩の一句。今月の『河』作品では、中戸川奈津実の次の一句と共に最高得点4を採った。
冬三日月何をしてきた手だろうか 中戸川奈津実
「皮手袋」は、のだめぐみそのものか、作者の魂の脱け殻の象徴である。作者はまず「皮手袋」に触発されて、上五中七の「誰もゐない何もない夜」がイメージされたのであろう。私が一行詩とは、感性の力、イメージの力が武器だと言って来たが、「皮手袋」の作品は、のだめぐみのイメージの力によって生れた作者の代表句である。
アスカ聴く十一月のソーダ水 酒井浩子
歌姫の黒きひとみや冬の沼 梅津早苗 |
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| イヴの日の煙草で輪つか吹いてゐる 岩下やよい
同時作に、
寒すばる私の壊した街がある
ニッポンにファシズムありし日の羆
フランスパン斜めにナイフ入れて冬
があり、『河』の若手作家の台頭に目を見張った。特に「寒すばる」と「羆」の句が面白い。だが、「イヴの日」の句は遥かに良い。勿論、この句は散文詩だが、散文詩の場合、季語が勝負になる。岩下やよいの作品は見事に季語が決まった。背負い投げ、一本! 中七下五の「煙草で輪つか吹いてゐる」の倦怠感の現代的な表現が見事。 |
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| 冬三日月何をしてきた手だろうか 中戸川奈津実
十二月の東京中央支部の句会で佳作6点が入ったものの、秀逸はなく、私だけが特選に採った。のだめぐみの次の句と共に今月の『河』作品で最高得点4を獲得した。中戸川奈津実は『河』に入会して間もない。『河』一月号には四句欄で初登場。次の一句に目が止った。
ウィンドーに秋の私といふ魔物 中戸川奈津実
中戸川奈津実の「冬三日月」は、十二月号の「しゃん句会」に投句した次の私の句が参考になろう。
ゆく年の何も持たざる手がありぬ 角川春樹
奈津実の句も、私の句も説明を必要としない。後は、読み手が何を感じるかだ。奈津実の中七下五の「何をしてきた手だろうか」は、誰でも共感できる措辞。私はこの句を句会で目にした時、石川啄木の『一握の砂』の中の次の一首を思い浮かべた。
水のごと
身体をひたすかなしみに
荵の香などのまじれる夕 石川啄木
「冬三日月」を見上げる作者の中戸川奈津実が、身体の一部である手を拡大させて現在の感懐を詠んだ作品。選者がこの句を秀逸にも特選にも採らなかったのは何故だろう。「冬三日月」が季語として動くと考えたか、或いは感傷的過ぎると感じたからであろうか。しかし、そのような解釈は理知に過ぎない。「魂の一行詩」はおのれの「いのち」と「たましひ」を乗せて詠うことだ。たとえその「生」が不様であってもだ。『河』一月号で石山秀太郎の次の一句を採り上げた。
落葉掻くつらつら時給八百円 石山秀太郎
一行詩人であれば、言葉を飾るのではなく、こころを詠うことが肝要だ。それは選句においても然りである。 |
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| ゆく年の人を待ちたる非常口 竹本 悠
同時作に、
パレットの中は原色冬の町
十二月八日をとこは長い脚を組み
がある。竹本悠が「はちまん句会」に参加して、この半年間に毎月『河』作品抄で採り上げられる佳吟を発表している。
夏きざす机の上のペンケース 『河』七月号
朝顔市ニコンの中に父がゐる 〃九月号
あきゆきも健次もゐない夏芙蓉 〃十月号
回らない椅子に坐りて十三夜 〃十一月号
透明な袋に秋を詰めてをり 〃十二月号
イースト菌まだふくらまぬ小六日 〃一月号
身辺詠に佳吟の多い竹本悠は、十二月号の「秋を詰めて」以来、抽象的な作品を詠むようになった。「ゆく年」の句も同様である。上五中七の「ゆく年の人を待ちたる」と来れば、従来の作者なら「改札口」とか「バス停」とかを下五に据えて安心しきっていたはずだ。しかし、今月号の「非常口」を持って来たことによって、突然、非日常的な世界を展開させた。当然のことながら、非常口で人を待つことなどあり得ないからである。非常口は非日常の象徴であり、ここで待ち合わす存在は異界の人間達であるからだ。次の私の一句を参照すれば理解できるだろう。
五月の鷹非常口より修司来る 角川春樹 |
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| 竜の玉寂しき星に似たるかな 岡田 滋
同時作に、
十二月叛逆の扉を開くるなり
がある。二句とも、私の影響を強く受けた作品だが、作者の中で消化し、自分の世界を切り拓こうとしている。まず、次の私の二句を参照して欲しい。
泳ぎゐて寂しき星と思ひけり 角川春樹
叛逆の十七文字や鷹の天 同
「竜の玉」は十二月号の「しゃん句会」の兼題であり、当日特選を採った。「寂しき星」とは、地球のことであり、天の川のことではない。私の寂しき星の句は、東京中央支部の句会で選者全員が特選に採ったが、寂しい星を天の川と解釈して私を失望させた。岡田滋の「竜の玉」は、ラピスラズリー色の球体を、地球と見立てた訳である。下五の「似たるかな」が上手い。 |
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| 朗らかにラガーの耳のつぶれをる 伊藤実那
同時作に、
紅葉のひかりのなかの二人かな
がある。「ラガー」の句は、十一月の「しゃん句会」の兼題であり、特選を採った作品。
伊藤実那は竹本悠が「はちまん句会」で頭角を現してきたと同様に、「しゃん句会」に参加したこの半年間で力量を上げてきた。昨年の『河』作品批評から拾ってみると、
つばくらや棒高跳びの少女跳ぶ 『河』八月号
花いばら産んでもらつても困る 〃十月号
死にてより父と呼ばるる人へ雪 〃同
経理課の机に西日差しにけり 〃十一月号
ダイキリを飲む父とゐて月涼し 〃十二月号
荻窪にしづかな雨や秋燕忌 〃一月号
がある。並べてみて気づいたことがある。伊藤実那の「父」という存在も、どうやら「幻」らしい。寺山修司の詠う「父」と同様である。だから『河』十二月号の「ダイキリを飲む父」が美しい幻なのだ。ダイキリを飲む父などどこにもいない。話しを伊藤実那の「ラガー」の句に戻すと、中七下五にかけての「耳のつぶれをる」の措辞が的確。その上、上五の「朗らかな」だ。上五の表現によって耳のつぶれたラガーの表情まで見えてくるではないか。「映像の復元力」も効き、前例のない一句となった。 |