魂の一行詩
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魂の一行詩    > 一覧に戻る
2006年8月号「月刊ランティエ。」掲載分  ※下に批評を掲載しています。
春寒や淡き茶漬にあられ泛き 渡辺二三雄
呑まず過ぐ八十八夜の歌舞伎町 淵脇 護
灯に倚りて青蛾となりしをんなかな 松下千代
父なくて子といふ玩具梅雨に入る 大森健司
暗渠より水母出てくる日暮かな 石田美保子
恋の猫月下の橋を鳴きながら 本宮哲郎
紙風船蹴って虚空のありにけり 斎藤一骨
蛇寂々詩などなんにも浮かばぬ日 田井三重子
狂ひぬくこともできずに花は葉に 北村峰子
風光るふらんすぱんにオリーブ油 滝口美智子
万愚節つばさ真西に向ひをり 丸亀敏邦
まふまふと陽の真ん中に葱坊主 鮎沢すみ絵
川越に大き亀ありもう鳴かず 石山秀太郎
たましひの斧を冷してゐたりけり 堀本裕樹
みどりの日玉子三個のオムライス 春木太郎
柿若葉乳房ゆらして皿洗ふ 倉林治子
蛾の肉を踏みて娼婦の消えゆけり 松下由美
白地着てこの世の母に逢いに行く 露崎士郎
楠若葉また彼の人に逢いました 栗原庸子
どしゃ降りや豆腐売れずに啄木忌 高橋祐子
春寒や淡き茶漬にあられ泛き   渡辺二三雄

中七・下五の「淡き茶漬にあられ泛き」という実景が、上五の「春寒」を導き出した。この春寒が動かない。この季語以外の中七・下五は考えられない。「自己の投影」が一句全体にゆき届いている。二三雄の代表句ともなる繊細な一行詩。

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呑まず過ぐ八十八夜の歌舞伎町   淵脇 護

前号の次の作品に続いて歌舞伎町を詠んだ。

初つばめ夜明けさびしき歌舞伎町

前作ほどの新鮮さも季語の働きもないが、上五の「呑まず過ぐ」が良い。これによって、前作の「夜明け」ではなく、不夜城の雑踏を通り抜けてゆく作者の姿が、鮮やかに浮かび上がってくるからだ。

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灯に倚りて青蛾となりしをんなかな   松下千代

同時作の次の作品と共に、「しゃん句会」で私が特選に採った。

えんぴつの芯尖らせて夏に入る
母親の胎内に鳴る祭笛

「青蛾」の句は、「しゃん句会」の兼題。女が灯に倚って青い蛾になるという視点が面白い。中島みゆきに「紅灯の海」という曲があり、私の好きな歌だが、歌詩の方は少年の危機感を詠ったもの。千代作品は文字通り夜の蝶。まるでこの女は、歓楽街の「雪女郎」にも、お水取りに登場する「青衣の人」にも思えてくる。「エロス」というより、女の性の淋しさがあぶり出された一行詩。

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父なくて子といふ玩具梅雨に入る   大森健司

『河』二月号に次の作品に触れて鑑賞した。

寒き夜の東京タワー眺めをり

「寒き夜」は実景としての「寒さ」ばかりでなく、心理的な「寒さ」を象徴している。健司は寒き夜の東京タワーを異邦人として眺めているのだ。その孤独感がこの詩の陰翳をいっそう深めている。

「父なくて」の一句は、さらに孤独感が深まりをみせている。作者は第一回の俳句現代賞を受賞した。タイトルは「二人の父」。祖父を父として育った作者には、現実の生みの親である戸籍の違う父がいる。俳句が一人称の文芸であると考えれば、かなり前に亡くなった祖父である父ではなく、戸籍の異なる父の死と考えられなくもないが、私はそう思わない。私の唱える「魂の一行詩」に添えば、「一句のドラマ性」と考えられる。この父は実在の父ではなく虚構の父だ。私はこの句を見た瞬間、いきなり胸を突かれた。

『河』二月号の選評の前段を載録すると、

作者は私に誘れて上京したが、仮面をかぶった都会にも都会人にも馴染めていない。彼が東京に留まっている理由は、ただ一つ私の存在と、「魂の一行詩」の運動に全体重をかけているからだ。

昨年の一月六日に京都駅で健司と別れた時、私への誕生日プレゼントのオーデコロンと共に彼の手紙を受け取った。その手紙の内容は、私のことを父と思っていると書かれていた。

今年の七月一日より、私の住むマンションの一室に「日本一行詩協会」を設立する。健司は、その立ち上げからの参加を強く希望していたが、彼の健康を心配していた私はその申し出を断った。結果的に日本一行詩協会は鎌田俊と堀本裕樹の二人を職員にして出発する。その後、健司から一度も私に電話がない。私は健司を見捨てた訳ではなく、なによりも彼の健康を気にしているのだが、健司が私に対してどういう感情を抱いているのかは計り知れない。私が胸を突かれたのは中七・下五の「子といふ玩具梅雨に入る」である。どの父にしても、子は玩具ではないが、子にとってみれば、また別の考えも成り立ち得る。上五の「父なくて」は、寺山修司が短歌の中で何度も存命の母を殺しているが、健司の「父なくて」も同様であろう。

句の解釈は別にして、健司のこの一句は見事な一行詩として成立している。

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暗渠より水母出てくる日暮かな   石田美保子

同時作の、
花菜畑浮力のつきて来たるらし
も良い。しかし「水母」の一句の方が、遥かに秀れた一行詩だ。昨年の『河』十二月号で美保子の次の句を激賞した。

うわんうわんと綿虫とんで通行止

「水母」の句も、綿虫がとんで通行止になった句と同様に実景とは考えにくい。水母とは、日本神話に登場し、後に恵比須神として尊崇された「蛭子」を連想したが、或いは水子を水母に象徴させたのだろうか。いずれにせよ、実に奇怪な光景だが、詩としてのドラマ性は極立っている。私の初期の作品集『信長の首』の次の一句と匹敵する。

貧農の水子を啖ひに蛭泳ぐ

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恋の猫月下の橋を鳴きながら   本宮哲郎

同時作に、
駈落ちのはなし四五日村おぼろ
があり、これも面白いが、「恋の猫」の句の方が更に良い。この句、実とも虚とも定かではないが、虚と捉えた方が面白い。何故なら「恋の猫」が、「恋の女」と置き換えることが可能になるからだ。春月の下、雪女郎ならぬ恋する女が橋の上を泣きながら渡っていると解釈すれば、「村おぼろ」の句よりも、更にドラマ性を孕む一行詩となるからである。つまり恋の句ということ。

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紙風船蹴って虚空のありにけり   斎藤一骨

『河』作品批評を私が担当するようになって、次の二句を採り上げている。

握り交はす手に西鶴忌ありにけり   『河』一月号
たちまちに独楽の衰ふ仏土かな   『河』三月号

いずれも難解で手強い一行詩である。「西鶴忌」の句は、斎藤一骨さんの「遊び」心が生みだした「放下の一行詩」として結論づけた。「独楽」の句は、IT企業の雄、ライブドアの堀江貴文氏の逮捕による日本国の現状を指している。「独楽」は堀江氏自身であり、IT業界なのだ。「仏土」とは日本国のこと。この一行詩は風刺の一行詩であり、象徴詩なのである。

さて今回の「紙風船」の句、前二作よりも難解で手強い一行詩。作者本人以外は正確に読み取る事は不可能な我が儘な一句。今月号の題も「虚空」。投句の際、一骨さんはいつも、次のような一筆を添えている

どうぞよろしくお願い申します 一骨

普通なら、この一文は謙虚な姿勢と受けとめられるだろうが、なんとも食えない老詩人となれば、素直に受けとれない。老剣客が一枚看板の道場主に一手を乞うている態度だ。こちらこそ、「どうぞよろしくお願い申します」

「紙風船」とは、私の郷里の富山の売薬で、置き薬と共にお土産として配ったもの。四角の紙に息を吹き込んで遊ぶ玩具。例句として、
日曜といふさみしさの紙風船   岡本 眸

岡本眸作品に比べると、一骨作品は全く素直でない。まず紙風船は、室内で手で突く遊びだが、室外で蹴ったりする遊びではない。そんなことをすれば、簡単に破れてしまうからだ。文字通り解釈すれば、紙風船を蹴ると蒼茫たる空があった、ということ。そんな生易しい御仁ではない。この「紙風船」の季語は、前作の「独楽」と同様、象徴として使われている。解釈は、幾通りも可能だが、とりあえず、二つに絞ってみた。

一つ目は、かつての日本映画に「人情紙風船」という作品があったが、「紙風船」を人間の絆、或いは家族の絆と捉らえて、人と人との絆を断ち切ると何もない空間があるだけだ、という風刺の一行詩。

二つ目は、「紙風船」は中身がないことの象徴として捉らえ、無内容な虚構の世界を蹴ちらせば、自由な空間がある、ということ。解釈としては、こちらの方が拡がりがあり面白い。例えば、更に具体的なイメージを読者に持たせると、私の場合、俳壇という無意味な存在と決別すると自由な一行詩の世界が展開する、という意味にもとれるからである。

今、突然、映像が浮かび上がった。虚空の中で一骨さんが本当に紙風船を蹴って遊んでいる、という幻想的な光景。俳句とは、本来、虚空に遊ぶことだ。この句の正体は、文字通り、「虚空に遊ぶ放下の一行詩」ということ。

一骨さん、どうかお手柔らかにお願い申します   春樹

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蛇寂々詩などなんにも浮かばぬ日   田井三重子

田井三重子の最近作を拾ってみる。

母捨てれば遠く椿の実の落ちる   『河』一月号
滝凍て詩歌この世に立ち上がる   『河』四月号

「滝凍て」の句は、一代の名吟。三重子も松下千代同様の俳人というより一行詩人。今回の句の眼目は、季語である上五の「蛇寂々」。蛇は夏の季語。

蛇は姿そのものの不気味さから人に嫌われているが、古くから伝説や怪奇談などにも数多く登場する。例句の多くも、その不気味さを念頭に置いているが、三重子のこの作品は蛇を寂々だと言っているのだ。寂々とは、ひっそりとしてさびしいさま。ひっそりとして寂しい蛇を起点として、中七・下五の「詩などなんにも浮かばぬ日」と言っているのだ。三重子作品は、寂しい蛇を詠ったところで、一行詩として成功した。

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狂ひぬくこともできずに花は葉に   北村峰子

同時作に、
執着のなくて女で豆の飯
万緑や繰り返し問ふ強さとは

どの句も、おのれの「いのち」を詠う一行詩である。私が作品批評を始めて、一番数多く採り上げる作家である。『河』誌から拾うと、
桜桃忌とっぷり暮れてゐる素足 (九月号)
銀河よりもどり工房濡れてをり (十月号)
引き金はいつでも引ける鰯雲 (十一月号)
人間の居らぬ絵を選る十三夜 (一月号)
極月のどこを押しても開かずの間 (二月号
寒月光集め砂場のでき上がる (三月号)
いぬふぐり翔べぬ翼を持て余す (四月号)
春の雪淋しき肉となりし舌 (五月号)
水温む悲しきものをまた掬ひ (六月号)

いずれの句も、癌と共に生きる作者の秀れた一行詩。作者の「いのち」と「たましひ」が、読者の「いのち」と「たましひ」に響き、感動させるのだ。『河』の一年間の作品を眺める限り、最も秀れた一行詩を発表し続けている。今月号も例外ではない。私は『河』の東京例会で次の作品を投句して、佐川広治編集長をはじめ多くの同人・会員の支持を受けた。

狂ふべき時に狂はず花は葉に

峰子の作品は、本来なら狂いたい状況に身を置きながら、狂いぬくことができない、と言っているのだ。この「いのち」の切実さは、ダイレクトに私の胸を撃つ。よけいな鑑賞を不用とする秀吟。

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風光るふらんすぱんにオリーブ油   滝口美智子

南ヨーロッパに旅行すると、バターよりもオリーブ油をパンにつける人々を目撃する。特に、みどり色のバージン・オイルが好まれる。この句は、上五の「風光る」という季語に、「ふらんすぱんにオリーブ油」という中七・下五がとても新鮮。映像が鮮やかに浮かぶ佳吟。

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万愚節つばさ真西に向ひをり   丸亀敏邦

同時作に、
味噌の香のほろとほぐれる鰆かな
があり、代官山のレストラン「シンポジオン」で開かれた四月「はいとり紙句会」の特選二句である。兼題は「万愚節」「鰆」「葱坊主」「卯波」。万愚節とはエイプリルフールのこと。例句としては、
万愚節に恋うちあけしあはれさよ   安住 敦
パイプもてうちはらふ万愚節の雪   石原八束
エイプリルフールの駅の時計かな   轡田 進

がある。丸亀敏邦の作品は、例句とは趣が異なる。「鳥帰る」は、秋冬のころに渡ってきた鳥が春になると北方へ帰っていくことを言うが、エイプリルフールに翼あるものが真西に向かっている、と言っているのだ。真西とは、死後の世界、即ち浄土を指す。浄土に向かって飛ぶものなど存在しない。即ち、エイプリルフールなのだが、この句の場合、翼あるものは人間である。当然、生命あるものは例外を除けば、死に向って行進している。「万愚節」の季語を用いながら、人間存在の淋しさを詠い上げた奇妙な、それでいて魅力ある一行詩。

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まふまふと陽の真ん中に葱坊主   鮎沢すみ絵

この句も、四月の「はいとり紙句会」での特選句。すみ絵は作詩家であり、詩人でもあるが、『河』に入会するや否やいきなり五句欄に登場してきた。葱坊主は葱の花が遠くからすると、可愛い坊主あたまが並んで見えることからユーモラスな名で呼ばれる。春の季語。例句として、
人間に退屈しをり葱坊主   松崎鉄之介
時間からこぼれてゐたり葱坊主   橋 關ホ
母逝きて泣き場所が無し葱坊主   今瀬剛一

どの例句を眺めても、葱坊主の形態の面白さから出発するが、すみ絵の作品はその形態ではなく、位置を示したのが手柄。それにしても上五・中七の「まふまふと陽の中に」とは、誰にも言えない。恐るべき新人の登場だ。

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川越に大き亀ありもう鳴かず   石山秀太郎

「亀鳴く」とは、藤原為家の「川越のをちの田中の夕闇に何とぞきけば亀のなくなり」が典拠となっているが、実際には鳴かない。ユーモラスな春の季語。例句としては、
裏がへる亀思ふべし鳴けるなり   石川桂郎
亀鳴くや事と違ひし志   安住 敦
鳴きたるはどの亀なりし一休寺   角川春樹

秀太郎作品は、藤原為家の本歌取り。それを、更にもじって見せた一行詩。お手柄!

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たましひの斧を冷してゐたりけり   堀本裕樹

同時作に、
高みつつ修羅の燕となりにけり
絵のかもめ絵より翔び立つ寺山忌
ランボーの太陽はどこ青岬

があり、いずれも良い。斧と言えば、俳人なら誰でも頭をよぎる佐藤鬼房の次の一句がある。

切株があり愚直の斧があり

無季語の「愚直の斧」は鬼房の全体重をかけた代表作。鬼房の斧は自らの愚直な「いのち」の象徴に対して、裕樹は激しい鋭利なおのれの「たましひ」を鎮めようとする「鎮魂歌」。作者と読者が「共振れ」を起す魂の一行詩。

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みどりの日玉子三個のオムライス   春木太郎

同時作に、
花辛夷ぽつりぽつりと佳人かな
日本語のきれいな子供こどもの日
憲法記念日ピースふかしてごろり

があり、いずれも面白い。この御仁は、私が同人に推薦しても、会員のままで二、三年遊ばしてもらいたいと言った人物。私の周囲には、春川暖慕と共に春木太郎のファンが多い。作品は人柄を隠せないので、その人柄に魅せられている人間が多いということ。

「みどりの日」は、昭和天皇の崩御によって祝日の天皇誕生日が「みどりの日」と決められたが、これは私の命名による。例句として、
書に倦めば水遣りに出てみどりの日   宮岡計次
みどりの日京のほとけを見にゆかむ   佐川広治
パンケーキほどよく焼けてみどりの日   角川春樹

私の句は、獄中句集『海鼠の日』の一句で、食に対する憧れを詠んだ作品だが、春木太郎の作品は、ほのぼのとしたユーモア句。「憲法記念日」の句など、笑ってしまった。

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柿若葉乳房ゆらして皿洗ふ   倉林治子

同時作に、
水色がワルツを踊る五月かな
アマリリスわたしに会いに街へゆく
蛇衣を脱ぐ急ぐなよ急ぐなよ

があり、どの句も感覚的な一行詩の世界。中でも「柿若葉」の句が断然良い。中七・下五の「乳房ゆらして皿洗ふ」とが緊密に結びついている。私の次の最近作に似ていて驚いた。

麦秋や乳房が洗ふ皿一枚   未発表

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蛾の肉を踏みて娼婦の消えゆけり   松下由美

同時作の、
燕来る少女の唇に薄き髭
と共に「しゃん句会」で多くの参加者から特選を採った。銀座五丁目の魔女と言われた由美の最近作。兼題は「燕」「蛾」。蛾を踏みつけて娼婦が街中に消えたという視点が面白い。特に「蛾の肉」を踏んだ、という発見が手柄。

由美は最近、五丁目の雪女郎と言われているらしい。

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白地着てこの世の母に逢いに行く   露崎士郎

『河』六月号の次の句に続いての佳吟。

水買つて水に色ある桜どき

「白地」とは、白地にかすりを織り出した夏の単衣もので、木綿や麻で作る。例句として、
白地着てこの郷愁のどこよりぞ   加藤楸邨
白地着て血のみを潔く子に遺す   能村登四郎
白地着てつくづく妻に遺されし   森 澄雄

いずれの例句も素晴らしいが、士郎の作品も負けていない。中七・下五の「この世の母に逢いに行く」が切なく読者の心に響く。この批評を書いていたら、私にも次の句が浮かんだ。

白地着てほとけの父に対しをり

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楠若葉また彼の人に逢いました   栗原庸子

作者は京都市右京区に住む。八十歳。まるで鈴木真砂女のような句だ。八十歳の作者が胸をときめかす男とは、一体どのような風貌をしているのだろうか。当然、彼女よりも年下。私が苦み走った中年の漢を想像したのだが……。勿論、恋の句。

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どしゃ降りや豆腐売れずに啄木忌   高橋祐子

同時作に、
花は実に吾が半生は豆腐売り

作者は那須郡那須町に住む豆腐商。『河』六月号の次の作品に続いての登場。

啓蟄やふふふふふふとあの野郎

祐子の作品は決してうまい訳ではない。むしろ、ぶざまな、あらわな句だ。それだけに、実感として手触りがあり、読者を共感させる力を持つ。このような日常の中の詩を私は大切に思いたい。

今月の河作品批評を書きながら思ったことがある。一行詩という作品も文芸なら、その批評も文芸でなければならない、と言うことである。

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