魂の一行詩
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魂の一行詩    > 一覧に戻る
2007年7月号「月刊ランティエ。」掲載分  ※下に批評を掲載しています。
遅き日のわたし来し橋いくつかな 大森健司
閉店カフェー虎落(もがり)笛売ります 林 佑子
さよならをうまく言えさう飛花落花 北村峰子
たんぽぽに小さな椅子の置かれあり 春川暖慕
光年の孤独の亀の鳴いてゐる 野田久美子
エープリル・フール少女を追つて少年が 田井三重子
黒いゴミ袋に梅が散つてゐる 堀本裕樹
ハンガーのぶらさがりゐる鳥曇り 鎌田 俊
悦ちゃんの帽子に春の来てゐたる 若宮和代
からつぼの胸に水仙灯しゐる 鈴木季葉
警察犬の陰(ほと)なめてをり春の暮 松永富士見
ふと妻の首絞めてをり万(ばん)愚(ぐ)節(せつ) 杉林秀穂
菜の花や少年ペニス撫でてをり 丹羽康行
鳥雲に入り月曜の来てしまふ 菅城昌三
遅き日のわたし来し橋いくつかな   大森健司

同時作に、

行く春やわりきれぬ数のこるなり
春の雪ひとりはやはりひとりかな
出ることばすべてがさむく啄木忌

があり、右の提出句は全て佳吟。特に「遅き日」の句に感慨を深くした。今月号の当月集の中で一番の秀吟。昨年『河』八月号の次の作品以来の共振れした作品。

炎天やあるべきものがそこにある

今月号の健司の全作品に言えることだが、紛れもない寂寥感は一体どこから来るのであろうか。一言で済ますことの出来ない青春の屈托と過ぎゆく青春の哀しみが胸を打つ。「遅き日」の下五の「かな」は、「春の雪」の句と同様の詠嘆として使われている。この「かな」の働きも良い。それが一層の読者の共感を得るからだ。「わたし来し橋」は勿論、現実の橋ではない。過去の象徴である。同時に「遅き日」は倦怠と屈折の暗喩(あんゆ)である。志を抱く健司にとって肉体が蹤(つ)いてこれない。その悲しみが作品全体に通底しているのだ。しかし、詩はそこから生れてくる。

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閉店カフェー虎落(もがり)笛売ります   林 佑子

同時作に、

荒波をきのふけふ見て雛納む
虐殺忌罠かも知れぬ日溜りは
鯛焼のまだ生きてゐる温(ぬく)さかな

があり、特に「鯛焼」の句は類想のない面白さを持った一句。「虐殺忌」と「虎落笛」の句は、私が出席した札幌支部の句会の作品。二月二十日の小林多喜二の忌日の句は、『河』五月号に私の次の二句と堀本裕樹の作品が掲載されている。

日輪の黄なる夕べや虐殺忌   角川春樹
蛤(はまぐり)の舌出す夜の虐殺忌   同
虐殺忌ワイングラスを割りにけり   堀本裕樹

私は今月号の林佑子の作品に感心した。特に「虎落笛」の句は、札幌支部を私物化していた吉田鴻司の「盆栽俳句」から決別し、「魂の一行詩」を実践している支部長の勇気ある転換が、結実した作品群であるからだ。勿論、閉店したカフェが在庫品として虎落笛を石笛や鳩笛と一緒に並べてセールしていた訳ではない。閉店したカフェにビルの間から悲鳴のような北風が吹きつけている景を詠んだ作品。本来の中七は言語の緊迫感を出すために字足らずとなっている。また上五は、「カフェー閉店してをりぬ」を七音に短縮して、即物的に置かれている。そして一句全体が、「魂の一行詩」として鋭い感覚を示した。

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さよならをうまく言えさう飛花落花   北村峰子

同時作に、

指切りの指が裏切る春ショール
三鬼忌を明日に手振れする画像

があり、癌に生きる北村峰子の体調が推察される。それ故に、「飛花落花」の作品に、読者である私は思わず、「止(や)めてくれ!」と叫んでしまった。しかし、まるで私を慰めるかのように、次の一句が隣りに置かれている。

生きむとすキャベツの芯のやはらかき

「飛花落花」の句意は説明するまでもない。正しく絶唱の一句。私が峰子の作品批評を書くことと、峰子が私に句をぶっつけてくることは、言わば二人の往復書簡なのだ。少なくとも、私はそう思いつつ、この原稿を書いている。

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たんぽぽに小さな椅子の置かれあり   春川暖慕

同時作に、

瞑(めつむ)りて?(ぶな)の芽吹きの中に居り

は、しみじみとした一句でこの作品も実に良い。だが、「たんぽぽ」の句は更に良い。「小さな椅子」は多分作者の物ではなく、子供用なのであろう。それ故に、上五の「たんぽぽ」との対比が絶妙なのだ。一面に咲いているたんぽぽの中に、小さな一脚の椅子が置かれている。しかし椅子に座るべき人間は存在しない。椅子がある以上、その主(ぬし)は直ぐに戻ってくるに違いない。何か童謡の中に出てくるようなメルヘンの世界。春川暖慕らしい暖かな作品。

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光年の孤独の亀の鳴いてゐる   野田久美子

人間の存在そのものが、大いなる銀河の一点に過ぎないと同時に、人間もまた宇宙を在らしめている存在でもある。かつて私の句集『猿田彦』の解説を書いた文芸評論家の磯田光一氏は、角川春樹の魂は銀河にあると指摘した。また詩人で小説家の辻井喬氏は、私のことを天の川から来た孤独な訪問者として捉(と)らえた。光年の孤独者は私でもあり、作者であることも可能である。その人間存在も、永遠のときの流れの中でのこれまた一点に過ぎない。「魂の一行詩」の要である「永遠の今」を詠うことは、詩人としての在り方に関ってくる。野田久美子は「亀鳴く」の季語を使って、人間の本質的な寂寥感を詠おうとしている。次の一句が参考になろう。

根源のいのちが淋し天の川   角川春樹

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エープリル・フール少女を追つて少年が   田井三重子

同時作に、

けふ一輪都忘れの咲きにけり

があり、澄んだ水のような一行詩。作品としては、「エープリル・フール」より良いかもしれないが、万(ばん)愚(ぐ)節(せつ)の季語を使った歳時記の中にも、全く類例にない新鮮な作品となっているので、この句を採り上げた。中七下五の「少女を追つて少年が」という措辞が抜群の働きを示している。終止形ではなく、現在進行形の少年が少女を追いかけている行為が躍動的だ。この句、中村草田男の次の代表句と比較して眺めるとよい。

少年の見遣(みや)るは少女鳥雲に

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黒いゴミ袋に梅が散つてゐる   堀本裕樹

同時作に、

消火器と並んでゐたり鳥ぐもり

があり、「黒いゴミ袋」とは同レヴェルの秀吟。次の鎌田俊の作品と並べて後述するので、ここでは触れない。俳句の世界では、乾いた抒情という手垢のついた表現をすることがある。一体、なにが乾いた抒情なのか、例句なしで安易に口にする言葉だ。「魂の一行詩」は、明確に現代の抒情詩と宣言しているが、乾いた抒情詩という表現に相応(ふさわ)しい実例に出合うことは稀(まれ)である。だが、堀本裕樹は今回実作を以て示した。両句とも、今月号の「半獣神」の中で一番の推奨に価する作品。現代の日常生活にある黒いゴミ袋。そして「桜」以前の「花」といえば「梅」であり、さらに溯れば「桃」が代表的な「花」である。堀本裕樹は古典的な美意識の象徴である。「散る梅」を黒いゴミ袋の上に出現させた。触れれば血を噴くような一行詩である。

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ハンガーのぶらさがりゐる鳥曇り   鎌田 俊

同時作に、

消しゴムよりするすると春愁ひ

があり、この句も現代の抒情詩として成功しているが、「ハンガー」の句は、堀本裕樹の「消火器」と並ぶ今月号の「半獣神」の中で頭抜けた作品である。そして、「ハンガー」の句も、「乾いた抒情詩」の代表句と言ってさしつかえない。両句とも、季語は「鳥曇り」で三月の「はちまん句会」の兼題であった。次の私の句は、四月二日の札幌支部の投句である。

鳥ぐもりひとりボールを蹴ってをり

堀本裕樹の「鳥ぐもり」は、自分自身を消火器と同格の物として自分を置くことによって、現代人の屈折したペーソスを詠い、鎌田俊は何もかかっていないファンシーケースのハンガーが並んでいる景を、一行の詩として詠んだ。何よりも、日常の中のドラマトゥルギーを一行詩として結実させた秀吟である。「消しゴム」の句も中七の「するする」が春愁にも消しゴムにも通じる措辞が巧みである。「するする」という擬声語が効果をあげている。

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悦ちゃんの帽子に春の来てゐたる   若宮和代

同時作に、

朧夜の尻尾を踏んでゐたりけり
逃水やメリーゴーランドの馬車に乗る
黄沙降る木下大サーカスの来て

があり、どの句も佳吟である。悦ちゃんとは、浜松の帽子店の市川悦子のことである。市川悦子は、過去に次の句を発表している。

すぐそこにショパンの雨と春がゐる   『河』四月号
クリスマス父と歩いた夜がある   『河』二月号

若宮和代にとって、年上の市川悦子はかけがえのない存在となっている。そのことが上五中七の「悦ちゃんの帽子に春の」の措辞となって現れている。しかし、『河』以外の読者が「悦ちゃん」という固有名詞を知る道理もない。にも関わらずこの句は成立するのだ。読者は悦ちゃんが何者であるかを知らなくても、この句の暖かい手触りは共感できるからである。一例をあげると、

弥兵衛とは知れど哀(あわれ)や鉢叩   蟻 道
そなさんと知っての雪の礫(つぶて)かな   沢田はぎ女
草枯に真赤な汀子なりしかな   高浜虚子

等の実例はいくらでもある。今年のバレンタインデーに私は悦ちゃんから黒のソフト帽をプレゼントされた。

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からつぼの胸に水仙灯しゐる   鈴木季葉

同時作に、

花吹雪語りてもなほ母の恩
次の世はわたしの子供よお母さん
まだあたたかき母の乳房に口ずけす

があり、どの句も母を失った切実な悲しみが深い。特に季語のない「次の世」の句は、多くの読者の魂に響くだろう。

「水仙」の句は、正しく母を失ったからっぽの胸中に水仙が灯りとなって点(とも)った一句。上手とか下手とか俳句ではとやかく言うが、「魂の一行詩」では、「水仙」の句を「いのち」と「たましひ」の一句として、おのが「いのち」を運ぶ佳吟なのだ。四月二日の札幌支部の句会の席上に、鈴木季葉は母の葬儀のためにいなかったが、私は次の悼句を句会に出した。

白鳥の蕊(しべ)をこぼして帰りけり

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警察犬の陰(ほと)なめてをり春の暮   松永富士見

松永富士見の「春の暮」の句は、四月の『河』東京例会で特選に採った。犬も猫もおのれの手足を舐る光景を目にすることがある。だが、陰(ほと)を舐めている犬を見たことがない。しかも、それが警察であると言えば、勿論、別な意味が生じてくる。松永富士見が現実に陰を舐ている警察犬を目撃したのかもしれないが、それを「実」と読者は受け取る必要はない。むしろ、「実」ではなく「虚」として受け取ることを作者は期待している。警察官の不祥事は今に始まったことではない。大坂で起った警官汚職や北海道警の裏金作りなど氷山の一角でしかないことを、私は知っている。そして、警察機構はその恥部に対して、常に組織的な隠蔽(いんぺい)工作を計って来た。松永富士見の句は、そうした警察に対する風刺として読みとることが可能であり、またそうでなければ一句としての魅力もない。季語の「春の暮」は、その上で成り立っていると解釈すべきだ。堀本裕樹の次の代表作がそれを証明している。

天皇が突つ立つている秋の暮

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ふと妻の首絞めてをり万(ばん)愚(ぐ)節(せつ)   杉林秀穂

同時作に、

神田川花と時代の流れけり
汐まねき当分あの世へは行かぬ

があり、二句とも杉林秀穂の現在の感慨が一句の中心を成している。「神田川」は『河』の吟行句の所産。かつて一世を風靡したかぐや姫の「神田川」が思い出され、同時に現実の景である神田川の落花に思いを馳せて詠った作品。「汐まねき」の句は、これも杉林秀穂の今の偶感を一句にしたためた。かつて杉林秀穂は、東京中央支部の句会で次の一句を発表して、出席者全員を驚かせた。

曼珠沙華噛み殺したいほど妻が好き

今回の「万愚節」の投句も、四月の東京中央支部で一同を驚かせた作品。句意は明瞭。愛妻家である杉林秀穂氏が、今度は妻の首を絞めるという一句。しかし、下五の「万愚節」によって、救われた気持に私を除く参加者を納得させた。勿論、ユーモアの句。だが、私の経験から言って、「愛」の究極、或いは地獄かも知れないが、愛するが故に殺したくなることは必然ではないのか。文芸評論家の福田和也は、著書『春樹さん好きになってもいいですか』の前書きで、

「春樹さん、女に刺された二個所の傷を自慢しないで下さい」

小説家の藤田宜永がある時、六本木のBAR「オマージュ」で、
「春樹さん、どんなに遊んだと言ったって、女に刺されたことはないでしょう?」
「藤田、お前は刺されたことがないのか?」
「残念ながらありません。でも春樹だってないでしょう?」
「あるよ」
私はワイシャツの袖を捲(まく)って、
「ほらっ」
私の二ヶ所の刺された傷を確かめて、
「失礼しました」
と、藤田は頭を下げた。

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菜の花や少年ペニス撫でてをり   丹羽康行

鈴木真砂女の句を、奇麗事だと言ったのは川柳作家の故時実新子である。このことは、俳句と川柳の違いを指摘しての発言に過ぎない。

短歌の世界でも、現代詩でも、俳句のような奇麗事で済ますことはない。「ふぐり」「陰(ほと)」のような言語を俳句は代用させて、「ペニス」という直接的な表現を忌避する傾向がある。しかし、「魂の一行詩」の世界では、俳句のような奇麗事で済ますことはできない。「手淫」「うんこ」という言語についても、それは言える。私の最新詩集『飢餓海峡』、以前に刊行された『海鼠の日』『角川家の戦後』から何句か拾ってみると、

勃(ぼっ)起(き)せしわが魔(ま)羅(ら)かなし夕ざくら   『海鼠の日』
獄の冬ペニスは暗い森となる   『角川家の戦後』
ペコちゃんの雲(うん)古(こ)のやうな犬ふぐり   『飢餓海峡』
建国日公衆便所に手淫する   同
花(はな)季(どき)の手淫に耽(ふ)ける真昼かな   同

私が角川書店の編集者であった頃、文芸誌を創刊することになった。誌名を社内で募集したところ、『人間』というタイトルが一番人気があった。その誌名を父・源義に提案すると、父は言下に拒絶した。父の言い分は、
「人間の汚さや汗や血や性を連想されるので、俺は嫌だ」
 私はその時、つくづく父の奇麗事を嫌悪した。結果、私はもっと過激な『野生時代』という誌名を思いつき、決行した。

丹羽康行の句から、私は森澄夫氏の次の句が頭を横切った。

麦秋の子がちんぽこを可愛がる

しかし、丹羽康行の句は、もっとなまぐさい。少年がペニスを撫でている状態は、手淫を指すのであろう。性への願望が最も強い青春期に、少年が手淫に耽けるのは当然で、当人にとっては多少気恥しいが、それを止めることができない。私は高校時代、手淫に耽けっている姿を母・照子に目撃されたことがある。だが、私は平然と射精するまで続けた。母は目を逸(そら)して立ち去った。私は桜(さくら)季(どき)にペニスが勃起するが、「菜の花」では無理だ。丹羽康行の句は、作者自身の過去なのか、現在の他者であるのか判然としないが、「映像の復元力」の効いた健康的な一行詩に思えた。

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鳥雲に入り月曜の来てしまふ   菅城昌三

同時作に、

春三月本売つてパン買ひにけり
煮えきらぬ男に山の笑ひけり

がある。どの句も作者の自画像が揺曳している。考えると、角川春樹賞を受賞した作品も、気弱な菅城昌三のうしろ姿が描かれていた。俳句が他者を詠むのではなく、自分を詠むという点を考えれば、結果としてこれほど自己を忠実に詠み続ける姿勢は珍らしい。それも俳句を始めて十年経った今もだ。彼の句の特徴は人生の華ではなく、哀歓を詠むことによって、読者の共感を得て来た。本年度『河』新人賞を受賞した菅城昌三の、ここ一、二年の作品をあげてみる。

白き靴水曜という静けさに
炎天に操られたる男かな
降る雪や今年最後のバスが出る
割り算の余りにも似て春寒し
愛鳥日一リットルの水を買ふ
風鈴の国を選ばず鳴りにけり

どの句も、「自己の投影」が結実した作品。第二十七回角川春樹賞の受賞作『熱帯夜』からあげると、

人といふノイズの中の熱帯夜
花火打つ何の祝ひのなき日にも
髪洗ふ亜細亜に赤き夜の来る
偽物の時計が夏を刻みけり

以上のような作品を眺めると、菅城昌三は紛れもない一行詩人と考えられる。今回の「鳥雲」の句も、原寸の菅城昌三が立っている。中七下五の「月曜の来てしまふ」にサラリーマンの哀歓が渋滞なく表現されている。

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メール一行詩
メールや葉書でも多数寄せられています。それらすべてに角川春樹が目を通し、選び、批評した作品群をここに掲載します。
特 選  ※下に批評掲載あり。
春一番沈ませてある生け簀(す)籠(かご) 曽根新五郎
しゃぼん玉別れた部屋の赤い鍵 大友麻補
ポケットにつめたきカイロのみのこる 島 政夫
春一番沈ませてある生け簀(す)籠(かご)   曽根新五郎

同時作に、

黒板を残さずに消し風光る
鳥交(さか)る人焼く煙立ちのぼり
海光といふ春光のうねりかな
父といふ目標ひとつ松の芯

がある。中でも「春一番」の句が良い。作者は式根島在住の小学校の教員である。「春一番」とは、その年の初めて吹く強い南風。もともとは漁師が使っていた言葉だが前後に気象用語として定着した。離島に住む作者にとっては、切実な季語である。中七下五の「沈ませてある生け簀籠」の措辞が素晴らしい。この句では、川や池ではなく海に生け簀籠が沈められている。景はそれだけだが、まるで作者の魂が沈められているような思いが伝って来た。読者の魂と作者の魂が共振れを起す秀吟である。

> 「特選」一覧
しゃぼん玉別れた部屋の赤い鍵   大友麻補

同時作に、

チューリップ微熱の雲のあふれけり

があって、この句の感覚も良いが、「しゃぼん玉」の句は、さらにドラマ性があり、しかも感性が鋭い。別れた部屋は、勿論、男女の関係が終ったという意味だが、赤い鍵がぽつんと置かれているという景は「実」というよりは「虚」。具象的に詠いながら、抽象化した絵画のような作品。季語の「しゃぼん玉」も、二人の関係の暗喩(あんゆ)となっている。

> 「特選」一覧
ポケットにつめたきカイロのみのこる   島 政夫

同時作に、

凍て空や針葉樹林をゆく列車
地球儀のごとく地球が暮れかかる
うら若き看守国家の靴の音

があるが、一番印象に残ったのは「カイロ」の句。冷たいカイロが残ったポケットという表現には、様々な想像が膨らむ。既に春になって久し振りに冬に着ていた服に袖を通したところ、ポケットに冷たくなったカイロが残っていた、という句意だろうが、むしろカイロは作者の思いの象徴と考えられる。

例えば、これを「愛」という言葉に置き換えることも可能である。ポケットに冷たくなった愛だけが残った、というドラマトゥルギーが発生するからである。

> 「特選」一覧
秀 逸
聴いていた寂しい夜の雨の音 古賀由美子
私とはどこから生えたカビなのか 大當ノブオ
境涯はをとこも創る涅槃(ねはん)西風(にし) 稲野博明
飛魚(とびうお)の使いきれない一日かな 秦 孝浩
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佳 作
荒波に慟哭(どうこく)の独楽(こま)沈めけり 阿戒千頭鬼
しわ増やせ顔やないがな脳みそや 赤澤雄一
脳味噌が流れて出るよ花粉症 川村美帆香
蝶々は子供のまばたきのように飛ぶ 小林夢実
桜散り新しき道進むかな 結城初美
地下足袋(じかたび)の裏で若草鳴きにけり 山崎寿也
霜降る夜見送られるの嫌いです 多田孝枝
ひとつ家の老ひ見つめたる白辛夷(こぶし) 早乙女喜栄子
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