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| 2007年6月号「月刊ランティエ。」掲載分 ※下に批評を掲載しています。 |
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| 春の夜や使ひみちなき湯の沸ける 渡部志登美
同時作に、
涅槃婆ポップコーンを買ひにけり
があり、ユーモアのある佳吟だが、「春の夜」は、今月号の当月集の中で次の作品と並ぶ秀吟。
行く雁や此岸の鍵の揺れどほし 斉藤一骨
句意は明瞭だが、内容が深い。俳句の三原則である。「映像の復元力」「リズム」「自己の投影」がこの一句に結実しているし、日常の中の詩の発見は見事に形成されている。「春の夜」の季語は、中七下五の「使ひみちなき湯の沸ける」の措辞に、これ以外に考えられないような働きを示している。春の夜に使う当てのない湯を沸かしている作者の姿が浮かんでくる。私の提唱する「澄んだ水」のような一行詩。 |
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| 去りしものときどき追ひてさくら季(どき) 滝平いわみ
去って行ったものが、何であるか具体的に示されていない。いないが故に、この抽象的な表現が、下五の「さくら季」の具象の働きによってイメージが喚起される。この句の巧みさは中七の「ときどき追ひて」の措辞だ。この中七によって、上五の「去りしもの」が具体性を帯びてくる。「去りしもの」は人間だ。想像すれば、その人間の「死」である。私に引き寄せて考えると、例えば妹・真理の自裁である。妹の死後、私は映画「愛情物語」を製作し、妹を悼む詩を何句か作った。
亡き妹(いも)の現(あ)れて羽子板市なるや
寒昴鉛筆書きの妹の遺書
朴の花高きが先に夕焼す
このように妹の死後、思い出しては俳句にしたが、父や母の死のようなインパクトがある訳ではない。妹・真理のことを思い出すのは、時々だ。時々思い出す程度に、父を母を失うにつれて情念も希薄になっていく。滝平いわみの「去りしもの」が肉親なのか、友人なのか、恋人なのか定かではない。しかも「去りしもの」が人間であるかどうかさえ定かではない。しかし、「ときどき追ひて」と言いながら、この「ときどき」はむしろ強い思いを抱いていると感じないではいられない。つまり、反語である。滝平いわみのこの句に、何故、さほどに惹かれるのか、読み手の私にも正確には解らない。答は、下五の「さくら季」にあるのだろう。 |
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| 行く雁や此岸の鍵揺れほどし 斉藤一骨
文句なしの名句である。中七下五の「此岸の鍵揺れほどし」の措辞には脱帽した。勿論、この「此岸」はこの世のこと。この句の「行く雁」は、当然ながら彼岸を目指している。今月号の次の句と比較すれば面白い。
此岸より彼岸の春の水流る 田井三重子
この句の彼岸はあの世ではない。川の対岸のことである。
以前、斉藤一骨さんの次の句を批評したことがある。
たちまちに独楽の衰ふ仏土かな
斉藤一骨さんの此岸は仏土のこと。仏土が現在の日本を象徴しているように、此岸は現在の日本を象徴している。つまり、日本の鍵が揺れどおしだ、ということ。藤原正彦の『日本の品格』がベストセラーとなったが、例えばこの「鍵」を「品格」に変換させることも可能である。また、「精神」や「志」とも取ることも出来る。しかし、そこまで考えずとも、「放下(ほうげ)の一行詩」の達人が生みだした美しい一行詩として素直に感じ取った方が、作者の本意にかないであろう。秀吟である。 |
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| ときにジャズときにボサノバ牡丹雪 春川暖慕
同時作に、
それなりにいそぎんちゃくの生きてをる
があり、この句もユーモアがあって面白い。この「いそぎんちゃく」は、私の「海鼠(なまこ)」「青い亀」と同様の作者自身の暗喩(あんゆ)である。かつて、作者は次のような自画像の句を作った。
草もちのやうな人ねと言はれけり
この大らかなユーモアがこの作者の特徴だが、今回の「牡丹雪」もその延長線上にある。「牡丹雪」の降る様を、時にジャズの、特にボサノバのテンポだと言い止めたのは、さすがである。 |
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| いち抜けてしろつめ草の丘にをり 北村峰子
同時作に、
たんぽぽの土手で明日とすれ違ふ
蕗味噌に猫舌焼いてしまひけり
春炬燵すぐに相槌打ちたがる
があり、どの句も奇妙に明るい。「しろつめ草」の句も同様である。癌と共生する作者の現在地が、いまこんなにも不思議な、一見突き抜けた透明感のユーモアを醸(かも)し出すことに、私は驚きを禁じえない。「しろつめ草」とは、「苜蓿(うまごやし)」のこと。人の群から、作者はいの一番に、「いち抜けた」と言って、抜け出して、「うまごやし」が一面に咲いている丘に今来ている。この丘からは、多分、群青の凪いだ海が見えるはずだ。春の穏やかな日が燦燦と降り注いでいる。私の獄中句集『海鼠の日』の次の句を参照して貰いたい。
満月やマクドナルドに入りゆく
満月のマクドナルドに入ってゆくのは、私の肉体ではない。私の憧れがまぼろしとなって満月のマクドナルドに入ってゆく。峰子の魂は今しろつめ草の丘に行っているのだ。 |
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| 四月一日お仏壇が東京へ引つ越しす 大森理恵
同時作に、
ふらここに、父蹴り母蹴り虚空かな
モディリアーニの首に春(はる)蚕(ご)の糸を吐く
過去の扉(と)を開けて桜に逢いにゆく
があり、どの句も現代詩の切り口が光る。「ふらここ」の句意は明瞭で、ブランコの父も母も地を蹴って虚空にある、ということだが、ひねって考えれば、作者がブランコに乗って、父も母も虚空に蹴り飛ばしているようなニュアンスが感じられて、苦笑してしまった。「四月一日」は、勿論、エイプリルフール。私の実家の仏壇は、もともと生家の富山にあったが、祖父・源三郎、祖母・八重の死後、東京の萩窪に引っ越した。今やその仏壇は、母の死後、姉の辺見じゅんが住む吉祥寺のマンションに引っ越した。私の母郷であると富山は、仏壇に何よりもお金をかけ、そして大切にする。だからどの家も、大きくて立派な仏壇が存在する。いわば、仏壇は家そのものと言ってよい。つまり、家の中にもう一つの家があるので、仏壇は移送ではなく引越しにふさわしい。四月一日と明示することで、作者には珍しくユーモアを込めた作品となっている。勿論、この句のままでもユーモアのある佳吟だが、私なら下五を「引つ越しす」ではなく次のようにしたい。
四月一日お仏壇が東京へ引つ越す |
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| 此岸より彼岸へ春の水流る 田井三重子
単純にして内容のある一句。作者の立つ位置から遠くの道の間に一筋の春の川が流れている、と言っているだけだ。勿論、この此岸と彼岸が人界と霊界を暗示していることは、誰でも解る。しかし、中七から下五にかけての「春の水流る」が何とも言えずに良い。この「春の水」は、『河』三月号の作者の「大悲」の水なのだ。
冬の水大悲の水でありにけり 三重子
春の水彼岸の鐘の鳴り止まず 春樹 |
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| 吊り革が母の手となる朧かな 堀本裕樹
同時作に、
虐殺忌ワイングラスを割りにけり
春暁やゲームの銃を撃ちまくる
春の雪ギターケースに銀貨投ぐ
があり、いづれも佳吟である。三月二十八日の「はいとり紙句会」で、大多和伴彦の次の句を特選に採った。
吊り革の輪の中に消ゆ海市かな 伴彦
「海市」とは蜃気楼のことである。カメラ・アングルが電車の中全体から次第に吊り革に寄ってゆき、輪が画面いっぱいとなると、そこには見たことのない光景が映っている。まぼろしだ。しかし、このヴィジョンも霧が晴れるように消えてしまった、という一行詩。イメージが映画のシーンのような一句。それに対して、堀本裕樹の一句は、誰も乗客のいない電車の吊り革が、いつの間にか人間の手となって揺れている。しかも、よく見ると母の手ではないか、という幻想の一行詩。堀本裕樹の多才な一面を見せた一句。 |
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| 春光やつまさきあげしバレリーナ 鎌田 俊
同時作に、
ライターの火を手でかこひ実朝忌
逃げ水を追ひゼッケンで呼ばれたる
がある。「実朝忌」は東京中央支部の、「逃げ水」は「しゃん句会」の、「春光」は「はちまん句会」の特選句。「春光」は「はちまん句会」の兼題で、私は次の作品を投句した。
春光や父の手擦れの二眼レフ
鎌田俊の句は、かつて自裁した妹・真理をモチーフにした映画「愛情物語」の1シーンを思い出させた。主人公の少女はバレリーナ。室内は白い漆喰の壁だが、全体として薄暗い。窓からの早春のひかりの中に少女は爪先を上げている。黒のレオタード、白のストッキングとトウシューズ。曲は白鳥の湖。少女は滑るように踊り出す。鎌田俊の句は、まるで私の演出した映画のシーンを切り取った作品。「映像の復元力」の効いた作品。 |
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| 入口の見えないホテル春の雪 松永富士見
同時作に、
鬼やらひ耳のうしろの耳の影
亀鳴くや手ぶらでゆけぬ黄泉(よみ)の国
花の雨すこし鳴らして電話取る
薄氷(うすらい)を踏んでしまひし痛みかな
があり、どの句もある水準を示している。「春の雪」の句は、短編SFの傑作「緑の扉」を思い出させた。主人公はある時、路上で緑色の扉のある建物を見つけた。日常に忙しい主人公は気にかかるもののいつでも入れると思い、そのまま素通りしてしまう。他日、緑色の扉のある建物を探したが見つからない。そうすると、緑色の扉のある建物を探すことが主人公の目的となってしまう。まぼろしのような緑色の扉。松永富士見の「入口の見えないホテル」も、私には「緑の扉」のような存在に思えた。この句を特選に採った「はちまん句会」の男性陣は、「入口の見えないホテル」は、ラブホテルのことだと指摘した。この原稿を書きながらなんと夢のない奴らだと思った。しかし、残念ながら私がロマンチック過ぎたらしい。正解は春の雪が積ったラブホテルの入口を探す男女だったとのこと。前にも書いたように、句意が二つに分かれる場合、良い方に解釈するというのが批評の立場である。それにしても、クソ! |
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| ガラスペン春吸いあげてゐたりけり 関 東風
ガラスペンが赤か青のインクを吸いあげている様を一句に仕立てた。芭蕉は、「物のみえたるひかり、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」と言ったが、「ガラスペン」の一句は、無限の時間の中にある「今」を言い止めた作品。ガラスペンが吸いあげているインクはたぶん赤であろう。赤こそ生命の春にふさわしい色だからである。永遠の「今」を詠うことは、「魂の一行詩」にとって、最重要なテーマである。私は「はいとり紙句会」の兼題である。「猫柳」に相当苦しみ、句会の当日、一瞬にして次の一句が出来た。句想の背景は前述の芭蕉の「物の見えたるひかり」であった。「澄む水の一行詩」として、自信の作でもある。
いま過ぎしもののひかりや猫柳 春樹 |
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| 春菜茹(う)でて一日しやべらなかつた 倉林治子
同時作に、
蛇穴を出てまなうら熱くしてゐたり
があり、この句も良い。しかし、「春菜茹で」の句の方が作意がなく、日常の中のドラマ性がある。別に一日話をしなかったのは「春菜を茹で」たせいではない。しかし「春菜を茹で」るという季語が、中七下五の「一日しやべらなかつた」を導き出した。下五の「しやべらなかつた」という突き放した表現も成功した。倉林治子の句の場合、私の自信作である次の一行詩と同様、散文と韻文とのぎりぎりの境に位置するが、韻文の方に針が振れるのは「季語」との勝負ということになる。季語が一句の中で目立ち過ぎず、さりとて季語がポイントとなる句作りが成功の要因となる。
ゆく年のバスはもう行つてしまつた
ゆく年の静かなクロールが横切る |
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| しゃぼん玉ふくらんでゆく孤独かな 岡本 汀
同時作に、
借りものの服でデートや桜の夜
蛇穴を出れば知らない町でした
があり、十六歳の高校生の本音の生き方が、はっきり汲みとれて清々しい。そして新鮮。「しゃぼん玉」の句は、下五の「孤独かな」によって、くっきりと若い作者の本音の「自己投影」がなされ、気持ちがよい。岡本汀の一行詩に賭ける情熱は本物。初期の次の作品と並べて眺めてほしい。
スカートを短めにして貸しボート |
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| 駅蕎麦に七味をきかす春しぐれ 阿部美恵子
今年の春、映画「蒼き狼 地果て海尽きるまで」のキャンペーンで富山に行った。俳優の松山ケンイチ、平山祐介、Ara(アラ)が同行した。富山から金沢への移動は列車となったが、ホームにある名物「立山蕎麦」が気になった。乗客もこの駅蕎麦が有名であることを知っていて、絶えず立ち食いの列に加わってくる。すでに朝食を済ませていたにもかかわらず、自販機で一杯ぶんの蕎麦と天種を買った。しめて四五〇円。だが予想を裏切る美味!さっそく役者やマネージャー、松竹の宣伝部も加わって、たった一杯の天ぷら蕎麦をなんと八人で食べ合った。一人二口ずつ。勿論、七味は八人全員が少しずつかけた。阿部美恵子の「春しぐれ」の句は、その時の光景をあぶり出した。駅蕎麦の句の「いのち」は「春しぐれ」にかかっている。春しぐれだからこそ、中七の「七味をきかす」がリアリティをもって効(き)いてくる。そしてなにより、町の蕎麦屋ではなく、上五の「駅蕎麦」なのがよい。「映像の復元力」の効いた作品。 |
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| 初春や少女が爪に花咲かす たぅち
同時作に、
父とゐて交わす言(こと)なくしじみ汁
がある。岡本汀が十六歳の高校生であれば、たぅちは二十歳の尾道大学の女子大生。尾道大学の「魂の一行詩」講座から、聴講生の山田友美が、現役の学生としてたぅちが『河』に入会した。たぅちの句は、いづれ本格的に取り上げる予定だが、今回は「初春」の句に絞る。中七下五の「少女が爪に花咲かす」の措辞は、ネイルアートのこと。しかし、ネイルアートの少女の姿を「爪に花咲かす」とは、なかなか言えない。そして、上五の「初春」によって、この句は詩になった。勿論「クリスマス」でも「バレンタインデー」でも成り立つが、下五の「花咲かす」となれば、ここはやはり「初春」だろう。
薦(こも)をきて誰人ゐます花のはる 芭蕉 |