魂の一行詩
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魂の一行詩    > 一覧に戻る
2007年4月号「月刊ランティエ。」掲載分  ※下に批評を掲載しています。
耳ふたつどこへも蹤(つ)いてくる寒さ 林 佑子
雪女郎布石しつかり打ちもして 北村峰子
人吊られゆく朧(おぼろ)夜(よ)のエレベーター 大森理恵
冬の水大悲の水でありにけり 田井三重子
初風に翻(ひるがえ)りたる家族かな 小島 健
十二月八日ドアが開けつぱなしだ 堀本裕樹
飢餓の子の脚掴み出す蓮根(はすね)堀(ほり) 西尾五山
人の日や誰も乗らない赤いバス 青柳富美子
正月をただよつてゐる核家族 窪田美里
冬(とう)麗(れい)や父に壊れてゐる時間 坂本敦子
日本いま日本にあらず竜の玉 廣井公明
陛下の日ラッパを吹いて夜を歩く 下村太郎
耳ふたつどこへも蹤(つ)いてくる寒さ   林 佑子

同時作に、

獅子舞の地に伏し人に戻りけり

があり、この句も面白い。「耳ふたつ」は、一行詩としても俳句としても、顔の様々な部位を詠うことによって、悲哀や滑稽を強調する方法として有効だ。例えば、私の最新作に次の一句がある。私の誕生日である一月八日を「海鼠(なまこ)の日」と獄中で命名したが、これはいつの日か訪れる忌日として考案したものだ。

耳ふたつ夕焼けてゐる海鼠かな

勿論、海鼠とは私のこと。獄中でわが身を客観視した滑稽さだ。ついでながら、一月七日の東京中央支部の例会で次のような投句があった。

虚と実の間(はざま)に生きて海鼠かな   西澤ひろこ
悪辣(あくらつ)な詩を詠んでゐる海鼠かな   角川春樹

二句とも、角川春樹の自画像である。林佑子の句も、厳寒の札幌に住む作者の自画像を滑稽視した一行詩。中七下五にかけての表現も巧みである。

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雪女郎布石しつかり打ちもして   北村峰子

同時作に、

新しき年が降り立つ右手かな
三日はや猫が家出をしてしまふ
神様の死角にをりて吸入す
水仙やまつ正直も罪なこと
寒(かん)鴉(がらす)途方に暮れてゐたりけり

があり、特に「新しき年」が良い。一連の句は、「布石」という題である。峰子にとっては、「雪女郎」の句に自信もあり、私の批評を受けたいと想っている。正直、「雪女郎」の句は、胸が詰まり、批評をかくことも一晩躊躇(ためら)った。だから、当初は「新しき年」の批評を書くことにしていた。新しい年を迎えて、一行詩を自らの手で書くことが、まだ出来るという芽出度(めでた)さと、一句の品格に惹(ひ)かれたからである。私が製作した映画『男たちの大和』の中で、臼淵磐大尉の言葉として、「生きる覚悟」と「死ぬ覚悟」という科白を書いた。別に色紙に書くこともないが、この言葉は、私の座右(ざゆう)の銘だ。生涯不良を宣言する、私の本心と言ってもよい。峰子の「新しい年」の句は、正に「生きる覚悟」の句である。一方、「雪女郎」の句は、峰子の「死ぬ覚悟」と解釈したことが、この句の批評を避けようとする心理が働いた為である。

冬のブランコ北村峰子の現在地   角川春樹

しかし、一晩考えた末、やはり句としても一番良い「雪女郎」を採り上げるべきだと覚悟が固まった。確かに中七下五の「布石しつかり打ちもして」は、一見、「死ぬ覚悟」と受け取られかねない。しかし、峰子は自分自身を「雪女郎」に象徴させている。これは獄中の私自身の「海鼠」と同じではないのか。であれば、「雪女郎」は「海鼠」と同様の、現在の状況を客観視し、滑稽視したことに他ならない。つまり、ユーモア句として、一段高い境地に、作者は到達しているということだ。

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人吊られゆく朧(おぼろ)夜(よ)のエレベーター   大森理恵

同時作に、

春よ来い狐の耳が濡れてゐる
女人高野ショールに鬼を隠らせて
月と歩く十歩に草の青さかな
物の怪が雛の灯ゆらし遊びたる
比良八(ひらはっ)荒(こう)スリッパ赤に履き替へて

があり、どの句も面白い。この面白さというのは、現実界の揺らぎにある。例えば、舗装された道路の下に、古代の闇が息づいているようにだ。現実と非現実とが背中合わせに存在し、非現実の奇妙な貌(かお)が、音もなく現実界の壁を突き抜けてくる感覚だ。そこに大森理恵の詩の世界がある。つまり、奇妙に歪んだ現実界ということ。「朧夜のエレベーター」が、人を吊っている光景を想像するとよい。このエレベーターはガラス張りだ。外の夜空にある月は、奇妙な形に歪んで見える。エレベーターの乗客は全て、月の引力で天井に引っぱられている。まるで空中の見えざる手が、人間の首をエレベーターの天井に吊るしているという光景。しかも、人間達の表情は、不思議な笑みを浮かべている。極論を言えば、作者の魂が病んでいるような世界。そこに理恵独特の現代詩が生れてくる。

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冬の水大悲の水でありにけり   田井三重子

同時作に、

男より真っ赤な手毬(てまり)わたさるる

があり、「真っ赤な手毬」の色彩感と映像の復元力に惹かれたが、こちらの方が解り易い分、詩の奥行きが浅い。一方「冬の水」の方は、一句が凛として立ち上がっている。「大悲」とは悲しみではなく、慈悲である。仏教における「愛」の真髄である。獄中生活の二年五ヶ月の間、私は毎日経典を唱え、仏に祈りを捧げて来た。仏教の経典は、釈迦入滅のかなり後になって成立した。新約聖書はキリストの死後、四、五百年たった後にギリシャ語版として成立したのと同様である。どこまで釈迦の真実を伝えているかと言えば、そのほとんどが伝説であり、真実はほとんどないと言っていい。その中で、唯一信じられる釈迦の教えとは「慈悲」である。つまり「「大悲」ということ。ならば、何故、作者にとって、「冬の水」が大悲の水であるのか。厳密に言えば、その答えは作者の中にしかない。しかしながら、この句が私の魂に共振するのは、何故か。冬の水が人間を救済する慈悲となった、という作者の感受性を、文字通り私も受けとめる所から出発する。例えば、観音像の中に、しばしば薬や水を入れる瓶を左手に持つ像を見出すことがある。瓶の中の水や薬は人間を救うための「慈悲」そのものの具象化である。であるならば、読み手の飛躍を承知して言えば、「冬の水」は、仏の大悲の具象化と言えなくもない。冬の澄んだ冷たい水は、作者の田井三重子にとって、自然界が人間にもたらす救いであり、恩寵(おんちょう)だと感じたことを、読者も私も感じとればいい。私が一行詩の目的地として目指している「澄んだ水の器の一行詩」の世界を、先取りした秀吟。勿論、無意識、無内容の一行詩。

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初風に翻(ひるがえ)りたる家族かな   小島 健

作者の小島健には、初期のころより家族を詠った秀句が多い。例えば、

くりくりと髪切ってさあ夏休み
にぎやかな妻子の初湯覗きけり
うたたねの妻に夕顔ひらきけり

等があり、特に「夕顔」の句は小島健の代表作と言ってよい。「初風」の句は、久々に家族を詠っての佳吟である。中七の「翻りたる」が家族賛歌の美しい表現。平穏な正月を迎えた家族の喜びも着衣の色どりさえ見えてくる。下五の「家族かな」が特によい。「映像の復元力」と作者の「自己の投影」が効いた一行詩。

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十二月八日ドアが開けつぱなしだ   堀本裕樹

同時作に、

BARを出るとき冬の水揺らしけり
冬林檎しづかに受話器置きにけり

があり、両句とも「澄む水の器」の一行詩。特に「冬の水」の句が良い。十二月八日は、太平洋戦争の開戦日。この句は、昨年の『河』十二月号の、次の句と並ぶ堀本裕樹の代表作。

天皇が突つ立つてる秋の暮

十二月の東京例会で、青木まさ子の次の句と共に特選に採った。

十二月八日象のはな子の孤独かな

しかし、開戦日の句としては、堀本裕樹に勝る句は、今後もなかなか登場しないであろう。それほどの名句と言ってよい。『河』二月号の、斉藤隆顕の批評は、

この句から説明のつかない不安感が伝わるのである(略)。頭の中でいろいろな映像が浮かぶ。それはこれまで心の内に秘めている不安。この句はおそらく今に生きる誰もが抱く不安感なのではないか。解き放されたドアからどんな姿の未来が訪れるのだろう。

だが、この開け放されたドアは、作者の不安感や近代的な危機意識の象徴として表現された訳ではない。この句の批評をする前に、私の詩集や句集の中から選んだ、一連の句を参照していただきたい。

誰も居ぬ晩夏のドアを開きけり
とある日のとあるベンチの晩夏かな
六月の中の一人となりゆけり

これらの句は、日常の中のドラマ性を拒否した作品。読者がどのような想像をするかは、端(はな)から問題にしていない。どだい何の意味も持たせていない。抽象画でなく、具象画。ただ即物的に事物も背景も置かれている、淡々と。言わば、ハードボイルドの手法にも似ているが、フランスの現代文学が提起した「アンチ・ロマン」の手法なのだ。言葉に意味を持たせないのは、現代詩や現代短歌に通じている。中七下五の「開けつぱなしだ」の乱暴な突き放し形が、特に印象的。十二月八日と開けっぱなしのドアの間には何の繋がりもないが、俳句の伝統的な二物衝撃の効果は、結果としてうまく働いている。私の句に付随して言えば、夏の終りのドア、ベンチだけが置かれている。六月の中に私が歩いている。ただそれだけだ。しかし、そこに詩や文芸も存立し得るのである。

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飢餓の子の脚掴み出す蓮根(はすね)堀(ほり)   西尾五山

同時作に、

極月の手をポケットに百人町

があり、「蓮根堀」は第一回「はちまん句会」の、「極月」は十二月東京例会の特選句。極月の句は、百人町という固有名詞の働きが群を抜く。「蓮根堀」の句は、俳人なら誰でも鷹羽狩行の次の代表作を思い浮かべる。

蓮根堀りモーゼの杖を掴み出す

だが、西尾五山の描く蓮根掘りはモーゼの杖ではなく、飢餓の子の脚を掴み出したという。勿論、譬喩であり、実景ではない。蓮根の形の連想から、作者は飢餓の子の脚を思いついた。風刺の句ではない。次の私の句が参考になろう。

貧農の水子を啖ひに蛭泳ぐ

飢餓の子の脚は、貧農の水子と同じ位置に置かれている。つまり、西尾五山の「蓮根堀」は私の「水子」と同様の凶々しさを詠った一行詩。鷹羽狩行の代表句に、少しも負けていない。それどころか、単に蓮根の形状を詠んだに過ぎない狩行の奇知俳句よりも上等である。

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人の日や誰も乗らない赤いバス   青柳富美子

同時作に、

まゆ玉に触れて六区の灯に紛る
埋火や恋に泣きたる日記読む
歌舞伎座の奈落を覗く寒さかな

があり、「まゆ玉」の句は、第一回「はちまん句会」の特選を採った。中七下五の「触れて六区の灯に紛る」の措辞が良い。

一月七日の東京中央支部の一月例会で、私は次のような講話をした。

俳句歳時記は言葉の宝庫だ。だから宝庫を開けて季語を自由に駆使すればよく、季語に縛られるものではない。

この私の発言を青柳富美子の「歌舞伎座」の句に当てはめると、中七下五の「奈落を覗く寒さかな」の措辞は、月並みとなる。「奈落を覗く」行為は、必然的に「寒さ」を導き出すからである。また、暗を明に代える「もどき」という手法から言っても、このままだと暗に暗を重ねる結果となる。では、暗を明に代える季語を俳句歳時記という宝庫から引いてくると、次のようになる。

歌舞伎座の奈落を覗く暮春かな

さて「人の日」の句に話を戻すと、中七下五の「誰も乗らない赤いバス」の措辞が目を引く。昨年の横浜で行われた『河』全国大会でも、市中を走る赤いバスの句が多かった。青柳富美子の「赤いバス」の存在は、具象でありながら抽象の世界に変化(へんげ)する。何故なら、中七の「誰も乗らない」という措辞が生み出した結果である。さらに、季語の「人の日」である。人の日は松過ぎの日であり、正月最後の日であるにも拘らず、すでに日常の中にある。都会は動き出している。その日にあって、誰も乗らない赤いバスとは現実の存在ではなく、別の次元の存在と化すからである。そこに日常の中の不安感や危機感が充分に表現されてくる。省略の効いた佳吟。

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正月をただよつてゐる核家族   窪田美里

同時作に、

傷つきしこの身が愛し冬銀河
歳晩の二人の酒を買ひ足して
長髪の夫(つま)と並んで笑ひ始め

があり、核家族の風景が窺(うかが)い知れる。「正月」の芽出度(めでた)さに対して、中七下五の「ただよつてゐる核家族」が良い。ユーモアともペーソスともとれる作品。私の次の一句を参照していただきたい。

傷つきしこの身が愛し冬銀河
歳晩の二人の酒を買ひ足して
長髪の夫(つま)と並んで笑ひ始め

があり、核家族の風景が窺(うかが)い知れる。「正月」の芽出度(めでた)さに対して、中七下五の「ただよつてゐる核家族」が良い。ユーモアともペーソスともとれる作品。私の次の一句を参照していただきたい。

ゆく年の浮き輪を持つてゐる家族

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冬(とう)麗(れい)や父に壊れてゐる時間   坂本敦子

同時作に、

日向ぼこそしてときどき詩人

があり、それもさりげない佳吟。しかし、「冬麗」の句は群を抜いての秀吟。上五の「冬麗」という晴に対して、中七下五の「父に壊れてゐる時間」が、文句なしに良い。「魂の一行詩」は、実よりも虚の大きさを評価する。故に、坂本敦子の父がアルツハイマーであろうが、認知症であろうが、正常であろうが全く詩では関係がない。詩としての日常のドラマ性のほうが真実であるからだ。私の母を詠った次の二句を参照すれば解る。二句とも虚である。

壊れゆく母が大根を煮てをりぬ
楪(ゆずりは)や母を叱りしさびしさよ

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日本いま日本にあらず竜の玉   廣井公明

同時作に、

木の葉髪わが祖は百済の逃亡者
放蕩(ほうとう)やわがまなうらの枯木灘
あらたまの初日の匂ふ神田川

があり、特に季語のない「枯木灘」が良い。作者は固有名詞の「枯木灘」から、蕭(しょう)条(じょう)と枯れた海を連想したのかも知れない。

「竜の玉」の句は、『河』中央支部の一月例会での特選句。句意は説明するまでもないが、下五の「竜の玉」の季語が良く働いている。この句を眺めていると、私の句集『JAPAN』に収録された作品のような既(デジ)視感(ャビュー)を引き起した。

陛下の日ラッパを吹いて夜を歩く   下村太郎

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陛下の日ラッパを吹いて夜を歩く   下村太郎/span>

十二月の「しゃん句会」で、私が一番に推した句。十二月二十三日の今上天皇の誕生日を造語である「陛下の日」を使っての、下村太郎の、これも代表作。中七下五の「ラッパを吹いて夜を歩く」が鮮烈。と同時に、童話の「ハールメンの笛吹き男」のような凶々しさを放っている。この句に匹敵するのは、堀本裕樹の次の二句くらいだろう。

天皇が突つ立つてる秋の暮
十二月八日ドアが開けつぱなしだ

「陛下の日」に触発されて、私は次の二句を作った。

陛下の日昭和の空が燃えてゐる
陛下の日血を流しゐるアスファルト

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メール一行詩
メールや葉書でも多数寄せられています。それらすべてに角川春樹が目を通し、選び、批評した作品群をここに掲載します。
特 選  ※下に批評掲載あり。
極月の皿を鳴かせて拭きにけり 曽根新五郎
母の手を握つて放す三日かな 露崎士朗
美しき風邪の瞳となりにけり 秦 孝治
楽器抱くこの世の闇を抱くやうに 中田陽子
鉛いま檄文となり活版所 森山きよ美
年末休診膣圧計をかたづける 茸地 寒
歩く歩く歩くしかない皇帝ペンギン 小林義和
極月の皿を鳴かせて拭きにけり   曽根新五郎

同時作に、

旅のもの旅にて洗ふ冬銀河
寒鯉の動かぬ水となりにけり
一木の骨となりたる雪催(ゆきもよ)ひ

があり、三句とも良い。「極月」の句は、中七下五の「皿を鳴かせて拭きにけり」の措辞が群を抜いて光る。上五の「極月」以外の季語が思い浮かばないほどだ。日常の中の細やかなドラマを一句に仕立てた。秀吟。

> 「特選」一覧
母の手を握つて放す三日かな   露崎士朗

作者の母は病床にいるのか、あるいは死後の景なのか定かではないが、解らなくともよい。下五の「三日かな」の季語が実に良く働いている。母と子の切ないドラマが一行詩となって結実した。

> 「特選」一覧
美しき風邪の瞳となりにけり   秦 孝治

同時作に、

早咲きの花が千本一行詩
風に死す国生みの地の鶏千羽
ペコちゃんの涙の氷柱(つらら)買ひに行く

があり、それぞれ風刺や笑いや凛とした一行詩。しかし、「美しき風邪の瞳」は遥かに良い。勿論、対象は女性。風邪の瞳になっても、益々美しく感じられる、ということ。風邪を詠った句として上出来。

> 「特選」一覧
楽器抱くこの世の闇を抱くやうに   中田陽子

同時作に、

もうひとりのわたくしがいて叫んでる

があり、この句も良い。上五の「楽器抱く」は、中七下五の「この世の闇を抱くやうに」という措辞に、読み手を充分に納得させる一行詩。

> 「特選」一覧
鉛いま檄文となり活版所   森山きよ美

現代では、活版も少なくなり、ほとんどがオフセットにねってしまった。かつて私も印刷所で働き、一本一本の活字を植えて、頁を組んだことがある。活字がオフセットになって、檄文など過去のものになってしまったが、この句の激しさは一行詩として屹立している。しかし、下五が説明的となっているのが残念だ。ここは季語を持って来た方が余韻がある。

> 「特選」一覧
年末休診膣圧計をかたづける   茸地 寒

一読して爆笑してしまった。年末の産婦人科の侘しい風景。勿論、実景ではなく、虚。作者は医者ではなく、グラフィック・デザイナー。季語によって危うく成功した。

> 「特選」一覧
歩く歩く歩くしかない皇帝ペンギン   小林義和

歩くしかない皇帝ペンギンは、国破れて亡命を余儀なくされた元皇帝の暗喩。風刺の良く効いた一行詩。

> 「特選」一覧
佳 作
風花といふ言葉がもてるきらめきよ 小林夢実
泣かないで抱きしめるから泣かないで 赤澤雄一
春霞亡き子の手のひら咲いてをり 上田剛史
心地よいと君が感じる距離にいたい 瑞緒
そこにあるあなたの思いはなんですか? 石見佐知子
あなたの思い出を燃やして輝きたい 石川雄太郎
秋刀魚食ぶ肩の鬼火を小さくし 井上 建
「団欒は薄ら寒い」と汁に言い 伊藤綾夏
弱き自分の影を踏む 本仲亮一
さびしくなるまでひとりでいたい 大當信雄
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