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| 2007年2月号「月刊ランティエ。」掲載分 ※下に批評を掲載しています。 |
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| 振り出しに戻りたき日のレモンかな 北村峰子
同時作に、
現在地たづねてをりぬ草の絮
生臭いままで終はらむ葉鶏頭
があり、どの句も切実だ。「草の絮」は、秋草から出た穂が、ほうけて綿状になったさまである。つまり、「草の絮」は北村峰子の現在地そのものである。葉鶏頭は、葉の形が鶏頭に似ているので、この名がついた。現実の鶏は生臭い生き物だ。葉鶏頭に托して死ぬ時も生臭くありたい、ということ。また、レモンは青春の象徴として、この詩に登場している。振り出しに戻ることだけは、双六や人生ゲームと違って不可能なこと。私自身に照らしていえば、獄中で何度振り出しに戻ることを祈念したか分からない。全ては現在の状況を受け入れ、そこから再出発するのだ、と自分自身に何度言い聞かせたか分からない。しかも、峰子は私以上に過酷な運命に立っている。私に出来ることは、彼女の一行詩に共振れすることだけだ。一行詩を峰子が作り続けることが、唯一の生の証であり、救いなのだと、私自身に言い聞かせるだけである。 |
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| 赤い実に水銀の夜が明けてゆく 山口奉子
同時作に、
まあ上がれいま新米の炊きあがる
母そはの家系の出つ歯小鳥来る
いま売り出し中の俳優の松山ケンイチが、私を評して、
「角川さんは表現者であり、プロデューサーですが、何よりも凄いのは、言葉が自由です。角川さんに勝てる人は、多分、いないと思います」
「言葉が自由」であることは、魂の一行詩にとって、最も大事なことである。
何故、俳句的な言い回しを使うのか? 何故、もっと自分の言葉を使わないのか? 何故、俳句的な制約に自分を縛っているのか? 何故もっと自分を解放しないのか? 私には不思議でならない。奉子の「新米」も「小鳥来る」の句も、なんと自由な言葉だろう。「赤い実」の句は、厳密に言って季感はあるが、季語はない。季語がなかったとしても、いいではないか。九〇パーセントの「魂の一行詩」は、明らかに季語があった方が作品として上出来だが、季語を使うのであって、縛られたのでは詩人ではない。「赤い実」には充分に秋の季感がある。読者がいかなる「赤い実」を想像するかにかかっている。そして、中七の「水銀の夜」が素晴らしい。充分に都会の霧の夜を象徴しているではないか。この一行詩が理解出来ないようでは、一生詩とは無縁である。 |
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| 天高し怪獣ガメラ組み上がる 川崎陽子
同時作に、
冷まじや高層ビルのアキレス腱
月光に濡れし禁足地下に入る
小脳の退屈赤い羽根揺るる
があり、いずれも面白い。「天高し」の例句としては、
天高く人間といふ落し物 上甲平谷
鼻すこし天向く少女秋高し 細川加賀
昨年の『河』十一月号で私が感銘した作品、
秋高し積木の家の建ちにけり 松下千代
がある。しかし、川崎陽子のこの自由な発想とユーモアには、どの例句も及ばない。いったい、俳人の中で誰がこの句の「怪獣ガメラ」など思いつくだろう。見事なユーモア一行詩。私もこの句には勝てない。
義士の日や戦艦大和組み上がる 春樹 |
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| 天高く子供のやうに歩きけり 春川暖慕
同時作に、
日向ぼこ詩嚢なかなかふくらまぬ
タイム割引待つて小春のお買物
があり、両句とも春川暖慕らしいユーモア句だが、「天高く」のような自由な発想、正しく三歳の童のような表現には及ばない。立ち姿も調べも良く、心暖まる類想のない一行詩。十二月の『河』東京中央支部の句会で次の句に感銘した。暖簿の句と同様のシンプルで手放しの一行詩である。
クリスマス父と歩いた夜がある 市川悦子 |
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| 秋冷のてのひらに載る中國靴 酒井裕子
同時作に、
蓑虫と同じ日向に遊びをり
吊る肉の奥に角燈冬隣
があり、「冬隣」の句が良い。「秋冷」の句は、『河』横浜大会の嘱目吟。白秋というほど、秋の空も水も澄んでいる。しかし、晩秋の冷やかな大気の掌のひら上の、赤い小さなチャイナ靴は目に染みるほど鮮やか。無技巧な水のような一行詩。素直な美しい句。 |
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| 鼾して大はんざきの冬ごもり 小島 健
十一月の『河』東京例会で特選を採った。「はんざき」は山椒魚のこと。勿論、鼾をかいて冬眠することはない。しかし、虚でありながら、ありありと実在感を持って迫ってくる。虚が実を超えたユーモアのある一行詩。 |
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| 鷹ひとつ流刑のごとく渡りけり 堀本裕樹
同時作に、
とんばうを仰ぐ少年兵がゐた
秋晴れやポストに魂を投函す
があり、いずれも佳吟。また、両句とも九月の「しゃん句会」の特選を採った。「鷹ひとつ」は十月の『河』東京例会での特選句。
この句を鑑賞するにあたり、次の私の三句が参考となろう。
流されてたましひ鳥となり鳴る 『流され王』
旅にして流人のおもひ鳩を吹く 『月の船』
流刑地の扉重たく閉ぢて冬 『檻』
鷹ひとつ」の句の根底に流れているのは、折口信夫の説である「貴種流離譚」であろう。或いは、キリスト教によって北方に追放されたヨーロッパの土着の「神々の黄昏」が尾を引いているのかも知れないが、やはり日本の古代の神人たちの漂泊と考えた方が正確に近い。鳥は古代「魂の乗り物」であった。鷹は荒々しい魂の象徴ととるならば、それは伝説の日本武尊であり、現実の角川春樹とも考えられる。実際、留置所と拘置所に一年三か月半、静岡刑務所に二年五か月と三日、荒魂である私は流されていた。中七下五の「流刑のごとく渡りけり」の措辞が素晴らしく、作者である堀本祐樹と読者である角川春樹の魂が共振れした秀吟。 |
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| もういいかいオモチャの言葉は箱の中 福原悠貴
同時作に、
秋光や赤いソファが売られゆく
があり、九月の「はいとり紙句会」で特選を採った。「秋光」は、季語も良く効き印象鮮明な句だが、季語のない「もういいかい」に強く惹かれる。季語のない句にもかかわらず、私の目には月光の入った子供部屋が見える。床の上のオモチャ箱から、人形たちの声が聴こえる。「もう子供は眠ったのかな? もう箱の中から出ていいかい?」永遠のメルヘンの織りなす、こころが癒される一行詩。 |
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| 冬隣素直になれぬ火がありぬ 蛭田千尋
同時作に、
包丁研ぐ秋のひかりを磨ぐやうに
雁渡るわが詩の翼信じつつ
があり、特に「秋のひかり」が良い。一方、「冬隣」の句は、この両句に比べると、かなり屈折している。「素直になれぬ火」とは、作者の「こころの火」だ。冬近くなれば、火が恋しくなる。まして、作者は鮨商の女将である。火を使うことが日常の生活の中で、ある日、火が素直でないと感じることがあった。多分、思い通りの料理が出来なかったことから来ているのだろう。句意は、そうであるに違いないが、鮨商ともなれば別な解釈も成り立つ。サラリーマンではない夫は鮨職人だ。つねに作者と夫は同じ職場にいる。新婚の頃であれば別だが、お互いが認め合うことと解放されたいという思いもあるにはある。そんなある日、些細なことから口論となる。しかし、冷静になってみると、非はどうやら自分にあるのかもしれない。でも、素直になってそれを夫に言うのも癪だ。こんなストーリィが、この句を眺めていたら飛び込んできた。つまり、この句はドラマ性のある一行詩ということ。 |
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| 肩甲骨ばさらと鳴りぬ大枯野 長谷川真理子
同時作に、
やほよろづの神とは大根引きながら
天高し橋水平によがるよがる
があり、なんとも言葉が自由ではないか。正しく真理子独特の一行詩の世界。しかし、両句とも「大枯野」には及ばない。「大枯野」の句は、十一月の『河』東京中央支部での特選句。今回の推敲された作品の原形である。次の形として投句された。
大枯野肩甲骨のばさと鳴り
原句は解り易いが、今回の推敲された一行詩の方が遥かに良い。つまり詩的感性が一段と高まり、言葉が緊密になっている。句意は同じである。大枯野の中で、突然、作者の肩甲骨が羽根に変化してバサッと音を立てた、ということ。実はこの句、私自身に起きた最近の変異に似ているのだ。私の神社で、私が「全脳細胞覚醒」を祈願したところ、突然、宇宙の存在に私の祈願が聞き届けられたと確信した瞬間、私は地面に倒れ伏した。その時、身体の細胞が変化するという啓示を受けた。翌日から私の身体は寝ているだけで、胸囲が十センチ脹れ、全身が筋肉に変化したのである。私の姿を見た周囲の人間から、盛り上がった肩甲骨から羽根が生えるのではないか、と言われたのだ。だから、真理子の「大枯野」の句は、虚でありながら実そのものと言っても良い。もっとも私の肩甲骨から羽根が生えたら、大天使ミカエルではなく、堕天使ルシフェル、即ちサタンになるに違いないが……。 |
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| 冬木立鬼孕まねば木偶と化る 滝口美智子
「冬木立」の句は、十一月の東京例会で特選に採られた。その時の原句は、
初もみぢ鬼孕まねば木偶と化る
であった。「初もみぢ」の句は、俳人なら誰でも三橋鷹女の次の代表句を思い浮かべるであろう。
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
三橋鷹女は「鬼女もみじ」の伝説に想を得ているので、上五の「初もみぢ」を作者は推敲して今回の句となったが、こちらの方が数段上である。私の獄中句集『檻』の次の句が、美智子の句の鑑賞の参考となろう。
たましひの抜けたる木偶となりにけり
木偶とは木偶回しのことで、傀儡と同じである。新年の季語で例句として、
玉の緒のがくりと絶ゆる傀儡かな 西島麦南
人形まだ生きて動かず傀儡師 高浜虚子
二百年以上の樹木には樹霊が宿る。即ち、「たましひ」が宿るということだ。神主などに「祓い」をさせずに樹霊の宿る木を伐ると、人が死んだりする。美智子の句意は、冬木立が鬼を孕まないとただの木偶人形と化すだろう、ということ。中七下五にかけての「鬼孕まねば木偶と化る」の措辞が、スピード感を伴ったドラマ仕立てになっている。 |
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| ウォール街に残る墓場の虫時雨 西尾五山
同時作に、
国旗より赤き鶏頭天安門
みちのくの燠うつくしき牡丹焚き
があり、両句とも良い。しかし、「虫時雨」の句は、実景でありながら虚としての面白さがある。例句としては、
いま褪せし夕焼の門の虫しぐれ 水原秋櫻子
がある。「虫時雨」は、たくさんの虫が鳴いているのを時雨に例えた日本的感性の所産である。この伝統的な感性を現代のニューヨーク、それも世界一の金融のメッカに現出させた力量はさすが。 |
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| 地下バーの愚者に蚯蚓の鳴きにけり 及川 洋
「蚯蚓鳴く」は、鳴かない蚯蚓を鳴かせた「亀鳴く」と同様の、俳句独特の季語である。例句として、
蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ 川端茅舎
蚯蚓鳴く疲れて怒ることもなし 石田波郷
指先より何か逃げゆく蚯蚓鳴く 沖田佐久子
などの近代俳句の佳吟が数多くあるが、昨年の『河』十二月号の、山口奉子の次の句があって面白い。
鳴くための蚯蚓の全長ちぢみけり
及川洋の「蚯蚓鳴く」も西尾五山の「虫時雨」同様の現代の一行詩だが、さらに手が込んでいて面白い。季語自体にユーモアがあり、これも伝統的な季感を地下のバーに登場させ、さらにその場所を「愚者の楽園」に例えたことによる。この句の自己投影は「愚者に蚯蚓の鳴きにけり」と断定したことだ。つまり、自己を客観的に滑稽視した点にある。だから、手が込んでいると言ったのだ。ユーモアのある一行詩として秀吟。 |
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| 秋風や錻力の金魚迷走す 青柳富美子
「秋風」の句も、十月の東京例会で特選に採った。同時作に、
秋天へゆくからつぽの観覧車
種茄子の日を溜めてゐる佃島
があり、両句とも写生の目が働いている。一方、「秋風」の方は、伝統的な名句の多い季語を用いて、中七下五の「錻力の金魚迷走す」と詠った。この句も現代のドラマ性を伴った佳吟である。勿論、作品の「自己の投影」は、中七下五の措辞によって果されている。「錻力の金魚」とは、作者の姿であり、作者が秋風の中で迷走していることを詠ったのだ。 |
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| 海鳴りの止り木にゐる秋思かな 松下由美
同時作に、
遠い橋渡らずにゐる良夜かな
晩秋の日暮来てゐる人の中
秋淋し鍵穴に合ふ鍵がなし
冬日さす午前十時のカフェの椅子
「遠い橋」「晩秋」「秋淋し」は十月の「しゃん句会」の特選並びに秀逸を採った作品。「海鳴り」「冬日さす」は『河』の横浜全国大会の嘱目吟で特選並びに佳作を採った作品。「海鳴り」の句は、全国大会で堂々と第二位となった。どの句も良いが、特に「海鳴り」の句は、私の俳句三原則「映像の復元」「リズム」「自己の投影」を実践した作品である。
「秋思」「秋淋し」の例句としては、
秋淋し綸を下ろせばすぐに釣れ 久保田万太郎
爪切れど秋思どこへも行きはせぬ 細見綾子
海荒れのまま暮れわたる秋思かな 村田 脩
があるが、どの句もたいしたことはない。むしろ、松下由美の句の方が、例句よりも遥かに良い。私の最近作に次の一句があるが、「秋思」「秋淋し」の句としては、私の作品が一番良いように思われる。
とある日の水うつくしき秋思かな
松下由美の「秋思」の句は、横浜港に近いバーの風景。作者の座っている止り木に、幽かながらも潮騒が聞こえている。その風情が、作者の寂寥感を導き出した、という句意である。実景としては確かに横浜であろうが、私には荒涼としたポルトガルの海のバーが目に浮かんで来た。そこは暗い海岸である。この地に一つの碑が建っている。いつ建造されたか不明なのだが、古代より多くの旅人がこの碑を眺め、寂寥感にかられた、と伝えられている。銘はこう書かれている。
「ここに地尽きる」
私が映画化する「蒼き狼」の原作は、森村誠一さんの『地果て海尽きるまで』だが、題名の由来はポルトガルのこの碑文「ここに地尽きる」から取った。松下由美の「海鳴り」の句は、四十年前にこの地に旅した私自身の孤独が、作品化された一行詩として感銘した。 |
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| 独りとはかういうものか冬木立 小田恵子
同時作に、
眼剤の力を借りし夜長かな
がある。随分切ない句だと思っていたところ、投句用紙の裏面の通信欄に次の文が書かれていた。
この度は春樹先生の素晴らしいご本をいただきましてありがとうございました。大切に、そしてしっかり勉強したいと思っております。私こと、去る九月三日に、主人を亡くしました。これからは俳句を生涯の友として頑張りたいと思います。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
小田恵子
眼剤の力を借りる句も、冬木立の句も、小田恵子の「いのち」を乗せた作品。無常迅速(歳月は人を待たず、人の死の早く来ること)の思いを、冬木立に込めて一行詩に託した。それ故に、読者である私の魂に共振れを起こした。作者の無常感を詠った作品だが、一方で強い生命力を秘めた一行詩である。 |