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| 2007年1月号「月刊ランティエ。」掲載分 ※下に批評を掲載しています。 |
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| 秋天に模型飛行機落ちにけり 松下千代
「秋天」は、十月一日の中央支部の句会の特選句。同時作に、
ドガの絵に指紋を残し神無月
木の肌に晩秋の日の静かなり
原つぱに転がつてゐる冬の影
があり、いずれもよい。「秋天」の句は、昨年の『河』十一月号の次の句に匹敵する。
秋高し積木の家の建ちにけり
「秋高し」の句は、久保田万太郎の次の代表句を思い浮かべた。
さびしさは木をつむあそびつもる雪
積木の家は必ず崩されることを前提に建てられている。つまり、家族崩壊の予兆としての象徴詩である。同様の構図が「秋天」の句にある。「模型飛行機」は規範的な家族の象徴と考えられるからだ。「秋天」の「晴」は、「模型飛行機落ちにけり」という「褻」によって充分に効果を高めている。だが、作品を文字通りに読むことも、また可能である。澄みきった青空に飛ばした白い模型飛行機が空地にいつしか落ちてゆく。日常のドラマを一行詩として成立させたということだ。だが、やはりこの句は家族崩壊の予兆として鑑賞する方が深い。二通りの解釈が可能な場合、良い方に鑑賞するのが批評としてのあるべき姿だからである。 |
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| なすことがあるのに秋の海を見に 北村峰子
同時作に、
息吸ふてゆつくり吐いて秋の蝶
秋うらら骨が謀反を企てる
木犀の庭で忘れることにする
丸もらふ列に並びてそぞろ寒
闇甘くなるまで噛んで夜の長し
秋の蝶は、峰子自身の姿だし、丸もらふ列に並んでいるのも、甘くなるまで闇を噛んでいるのも、全てが峰子の今の現在地なのだ。だから、『河』十月号の峰子の次の句で、もう声が出ないことを知った。
青葉木菟あつさり声をくれてやる
十月二十九日の第四十八回『河』横浜大会で、峰子と再会できることを私は楽しみにしていたが、案の定、娘さんの代理出席となった。娘の恵さんに托した可愛い銀の蛙の携帯ストラップと一通の手紙を、私は受け取った。
春樹主宰
河賞、ありがとうございました。主宰には、何から御礼を申し上げてよいやら感謝でいっぱいでございます。
当月集に推薦していただきましたのに、お断りした私に「峰子の意志を尊重する」とおっしゃってくださったこと……。嬉しかったです!!
そして、毎号?、拙句を取り上げてくださり、私の「いのち」に、「たましひ」に、共振れしてくださったこと……。
それは、どれほど私の気持ちを奮い立たせ、生きる力になったことでしょう。
今、俳句をしていてよかった。いま、春樹主宰に出逢えてよかったと、心底、幸せに思っています。
以前、主宰が、ご自分の魂は、透明なブルーの球体で、そのエネルギーは「惜しみのない愛」を放射していた……と書かれて居られましたが、まさに私はその「惜しみない愛」を存分にいただいているのだと、感じて居ります。
あらためて、厚く御礼を申し上げます。ありがとうございます。
大会に出席できないことは、申し訳なく、残念なことですが、いつの日か、元気な「魔女のキキ」でお目にかかりたいと念じております。
なんて言いながら、秋空の美しさに、いてもたってもおられなくなって、ひとっ飛び……。ひょっとしたら会場の隅に座っているかもしれませんよ。(笑)
手紙にある通り、峰子はすでに外出できる身体ではない。だから「秋の海を見に」出かけることもできない。「なすことがあるのに」というのも事実ではない。私が刑務所にいた時の次の句は、私の切実な憧れだった。
満月やマクドナルドに入りゆく
私の句が俳句的でないのは、端から承知している。だが、この句は、この世の地獄である獄中の、切実な「たましひ」の叫びである。峰子の「秋の海を見に」も、すでに声さえ奪われた峰子の切実な思いであり、叫びなのだ。虚の方が実よりも大きいということを、読者は噛みしめて貰いたい。なすことがある通常の世界に、作者は「いのち」を置いていない。正に「魂の一行詩」なのだ。魂だけが「秋の海」を見に行くことができるからである。 |
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| 水差しに水の残れる無月かな 佐野幸世
同時作に、
川暮れて母の掌に鳴る胡桃かな
があり、この句もよい。だが、無内容とも言える「無月」の句に惹かれる。季語が「雨月」となると、言葉に意味を持ち過ぎる。また水差しの水との関連も気にかかる。やはり、ここは無月がよい。その無月を引き出す言葉が上五・中七にさりげなく置かれている。
私はいま、改めて「水の思想」に思いをめぐらしている。水自身には意識がない。しかし、水を包む器があると、水に意識が生まれてくる。例えば、「命根石」と呼ばれる石がある。三億年から五億年前の水を内包した石のことである。一番手に入りやすい水入りのお守りとしては、ブラジル産などの瑪瑙、次いで日本産の水晶、最も入手し難いのがビルマ産の翡翠である。水入りの翡翠ともなれば一族の家宝として表に出て来ない。命根石の謂れは、石自体が「いのち」を宿し、意識を持つからである。縄文後期に翡翠大殊を死者の胸に飾ったり、翡翠が少なくなった弥生時代以降は生者が翡翠の勾玉を使用するようになる。つまり霊の宿る石と考えられたのだ。「水」は古代より聖なるものと考えられ、それは現代にも宗教の中に息づいている。
次の私の一句は、「水の思想」に基づいた象徴詩である。
澄む水の器でありし一行詩
今、私の目指す地点は、一行詩という器に澄んだ水のような世界を盛ることにある。水のようなさりげない日常の中のドラマ性である。そこに深い思想が生まれる。言葉を飾らず、自分の「いのち」と「たましひ」を詠い、読者の心と魂に共振れさせる一句である。幸世の「無月」の句は、単に水差しに水が残ったと言っているだけだ。しかし、無月の季語を得ることによって、そこにさまざまなドラマを読者に想像させる力を持つ。そして、この一句は永遠の中の今を言い止めている。無内容な、そして透明な一行詩。 |
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| 家のある処へ帰る秋の暮 春川暖慕
同時作に、
秋の夜を米粒ほどの蜘蛛とをり
お日柄も宜しいやうで蛇穴に
をととひの自然薯堀の穴であり
があり、作者のひょうひょうとした人柄がそのままの句の立ち姿と重なっている。本年度の『河』賞受賞作品の次の一句のような人柄であり、作風なのだ。
草餅のやうな人ねと云はれけり
「秋の暮」の一句は、そんな作者の延長線上の、空気のような作品。上五中七の「家のある処へ帰る」は何の変哲もない。だが下五の「秋の暮」によって、調子は一転する。「秋の暮」は、「秋の終わり」であって、「秋の夕暮」ではない。次の芭蕉の代表句がそれを示している。
此道や行く人なしに秋の暮
私の次の最近作も、秋の終わりを指している。
つるつると駅の水飲む秋の暮
時間帯としては、秋の終わりの昼さがりである。芭蕉の句も同様である。しかし、古典としては秋の夕暮が「秋の暮」を指していた。だから、春川暖慕の「秋の暮」は、季節の終わりと同時に秋の夕暮の二義性を持たせて作句されている。晩秋の夕暮の中を作者は作者の住む家に帰って行く。それは、氷河期、縄文期を通じての人間の帰巣本能となっている。すでに、人間の遺伝子に組み込まれている、と言ってよい。読み手は、さまざまな思いでこの句を眺めることができる。「家」という存在が、なにか私には眩しく感じられて仕方がない。しかも、秋の暮を詠んだ作品として全く類想がない、作者独自の視点である。 |
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| 秋虹の歩いてゆけるところまで 野田久美子
同時作に、
はじめから世界の歪む花梨の実
狐の剃刀これほどの露の中
があり、どの句も「世界の歪む」抽象画の中にしか存在しない。勿論、虚の世界。久美子の「秋虹」は、辿り着けない現実ではなく、地面の上の建造物としてある。その存在は、歩いて近づくこともできれば、触れることさえできる。だから「歩いてゆけるところまで」と秋の虹が境界線のごとく実在する。そう、現実界と異界のボーダーとして、秋の虹がある。つまり、久美子のこの句の魅力は、具象を抽象化して見せた作品。細見綾子の次の句が参考となろう。
峠見ゆ十一月のむなしさに |
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| 空蝉を拾ふ己れの墓の前 斎藤一骨
同時作に、
秋の風わが白骨を撫でてゆく
があり、この句も魅力がある。私の獄中句集『海鼠の日』の次の句と並ぶ。
わが骨に雪降る夜の鉄格子
「空蝉」の句は、自分もまた入る予定の先祖の墓の前で空蝉を拾った、という写生句。今まで、一骨さんは出句の際に、「どうぞよろしくお願い申します 一骨」とあったが、今月。号からは次のように変った。
「何かとご厄介になっております 一骨」
墓とは、何かとご厄介になる場所。また後の世の人々に何かとご厄介をかける場所。聖地であると同時にかなり俗な場所でもある。その聖俗が環流する場所で作者が拾ったのは「空蝉」だと言う。そうには違いないが、作者が一骨さんともなれば、そう簡単には受け取れない。空蝉は勿論、蝉の抜け殻だ。私の最近作の次の句と比べて頂きたい。
たましひの抜けたる獄の案山子かな
つまり、作者が拾ったのは「わが白骨」か作者自身の「たましひの抜け殻」の象徴と考えることが可能だからだ。「放下の一行詩」に遊ぶ一骨さんなら、そう考えた方が面白い。 |
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| 天皇が突つ立つてる秋の暮 堀本裕樹
この句、一読して渡辺白泉の次の句を思い浮かべた。
戦争が廊下の奥に立つてゐた
戦争」の句は、渡辺白泉の一代の名吟である。勿論、戦争と天皇は同次元ではないが、しかしそうではないとも言い切れない。まるで、兄弟句のような作品。そして、渡辺白泉に匹敵する強烈な一行詩である。九月の東京例会でこの句が回って来た時、私は思わず目を剥いた。原句はこうだった。
天皇が突つ立つてゐる秋の暮
しかし、「突つ立つてゐる」だと、七音の定型だが、即物的な強さが薄れる。私自身は予選用紙に「突つ立つてる」と表記していた。私は句会の講評でそのことを指摘した。
「秋の暮」は、伝統的な季語だが、それを逆手に取って、新しい息吹を持つ詩的表現に再生させた。正に「魂の一行詩」としての傑作である。 |
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| 冬隣だれかがだれかにさやうなら 春木太郎
本年度の『河』新人賞作家の不思議な一句。不思議というのは、理解できない句というのではなく、むしろ句意は文字通りに過ぎない。冬が間近になって、誰かが誰かに別れを告げる。句意としては、それだけだ。しかし、誰が誰に別れを告げたというのだ。作者以外には全く不明である。にもかかわらず、まるでダリの絵のように、奇妙にシュールで、しかも全体の景の一部が歪んで見える。不思議といったのは、このためだ。
そして、何故、この句が私を魅了して止まないのか、確と理解できない点にある。詩とは、説明がつけばよいというものではない。シュールな抽象画が鮮明な具象画より、遥かに魅力に富むことはしばしばある。この句は、春木太郎の抽象画とだけ言っておこう。後は読み手次第ということ。 |
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| むかご飯遠くの家に灯がともる 松下由美
同時作に、
五年後の無音の秋にひとりゐる
子持鮎かあさんの旅終わりけり
柿の天まだ終止符が見つからず
それぞれにそれぞれの秋いたりけり
があり、いずれの句もよい。「むかご飯」の句は、九月の「しゃん句会」で特選を採った。例句としては、
たれかれに供へて熱きぬかご飯 黒田杏子
黙々と夫が喰ひをりぬかご飯 加藤千世子
がある。たいして旨くもない飯だが、最近は自然食として家庭ばかりか日本食の店でも出すようになった。由美の「むかご飯」は、遠くの家の灯がともり始めた、と言っているだけだ。この句の眼目は「遠くの家」だが、実景としての遠くの家ではなく、むしろ心理的な遠さにある。次の二句が参考になろう。
ひとつ見えて秋燈に近よらず 秋元不死男
秋の灯やとなりの家の遠くなる 角川春樹 |
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| みの虫とふたりぼつちでゐたりけり 露崎士郎
同時作に、
烏瓜何ともなくて赤くつて
団栗のひとつふたつを日の暮るる
玉の緒のいのちの限り吾亦紅
どの句も切ないほどの寂寥感に満ちている。特に「団栗」の句は「みの虫」と並ぶ秀吟である。作者は都会にいながら、心の旅が続く故郷喪失者である。露崎士郎の今回の一連の句を眺めていたら、万葉集の高市黒人の羈旅歌が頭を掠めた。
旅にしてもの恋しきに山下の朱のそほ船沖に漕ぐ見ゆ
いづくにか我が宿りせむ高島の勝野の原にこの日暮れなば |
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| 十六夜の夜空を翔けるもののこゑ 山田友美
同時作に、
完璧な空を見上げて登場す
雁渡し珈琲の香の坂の家
ビー玉や前世と同じ秋夕焼
があり、特に「登高」の句がよい。「十六夜」の句は、九月の「はいとり紙句会」の特選句。山田友美はまだ一行詩を始めて短期間にもかかわらず、九月の「はいとり紙句会」では、今回の一連の作品で私を抜いて一位となった。
「十六夜」の句がよいのは、夜空を翔けるものが具体的に示されないことによって、雁などの鳥類以外の存在を暗示した手柄である。例えば、天狗や竜などの霊界の生命体、或いは闇の世界に棲息するもの等の目に見えない存在を想像することが可能になるからである。詩的感性のある一句。 |
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| 花嫁の白きヴェールや小鳥来る 山田絹子
同時作に、
細かくこまかくちぎる手紙や秋の暮
長き夜のヴィビアンリーの睫毛かな
芋煮えて宅急便の届くころ
があり、特に「秋の暮」がよい。投句用紙の通信欄に次のような文面が書かれてあった。
いつもわかり易い御指導、感謝しております。先日の句会(十月一日)にて、主宰より、真に役立つ学習の方法を教えていただき、すぐに実行に移しました。これまでは、ただノートに書き写していたのですが、一句一句、短冊に書いてみますと、本当に、俳句の広やかな世界が、ひしひしと感じられます。努力したいとフレッシュな気持に、再びさせられました!!
一行詩の上達方法として、気に入った句を色紙に筆で書いてみると、作者の思いや息使いが聴こえて来るようになる、と私の経験に照らした助言を、山田絹子が実行した結果、『河』作品で今月は五位にランクされた。「小鳥来る」の季語は、秋に色々の小鳥が渡ってくることに因る。特に花鶏、鶸、慰鶲などは鮮やかで美しい。山田絹子の「小鳥来る」は、花嫁の白きヴェールに対比して、赤や青の色鳥を表現したかったに違いない。色鳥を登場させることで、白きヴェールの花嫁の初々しい姿や健康さをも強調する一行詩となった。映像の復元力の効いた一句。昨年の『河』九月号の次の一句を思い出させた。
梅雨寒の空へ花嫁ブーケ投ぐ 西尾五山 |
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| 山脈に影濃くたたみ鷹渡る 川越さくらこ
同時作に、
月草や濡れ鳥あをく発つ夜明け
子を捨てて流転は早し天の川
両句とも現代詩の影響を受けた作品だが、「鷹渡る」の句は、力強いタッチのデッサンの効いた一行詩。例句として、私の初期作品『信長の首』より、二句を抽く。
裏山の骨の一樹は鷹の座ぞ
白骨の一樹に鷹の動かざる
川越さくらこは、東京の露崎士郎、京都の菅城昌三と共に来年度の『河』新人賞に最も近い作家である。 |