魂の一行詩
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2006年6月号「月刊ランティエ。」掲載分  ※下に批評を掲載しています。
ペン先を走らせてゐる春の詩(うた) 松下千代
花冷の舌で虫歯を探しけり 山口奉子
鳥雲に入りて遊具の赤と青 半谷洋子
わたくしの生まれるまへの春夕焼 石田美保子
涅槃会(ねはんえ)のしづかに浮きし貝の泡 滝平いわみ
おぼろ夜や猫あをあをと発光す 淵脇 護
四月馬鹿患者の放屁(ほうひ)聞く夜かな 内田日出子
竜天に艀(はしけ)の浮かぶ隅田川 丸亀敏邦
兜煮(かぶとに)の目玉をつつき竜天に 広瀬恵美子
立春の大きな卵割つてをり 福原悠貴
売られたることを知らずに山笑ふ 小川江実
春の雪淋しき肉となりし舌 北村峰子
生けるもの茹(ゆ)でるもの選(よ)る花菜かな 蛭田千尋
茎立(くくだち)やたしかにあった昨日といふ日 木崎幸子
待春(たいしゅん)のコップにパセリの森ふやす 中野彰一
穴を出る蟇(ひき)よ憲法第九條 木本ひでよ
乗るはずのバスが出て行く枇杷(びわ)の花 三田村伸子
美しき数式のあり蝌蚪(かと)の国 西川輝美
目借時(めかりどき)昼の男の通りけり 長谷川眞理子
山腹に午報(ごほう)の返る雪解(ゆきげ)かな 藤森和子
あたたかき雨の匂ひの捨蚕(すてご)かな 神戸恵子
梅東風(うめごち)や羊羹(ようかん)厚くもてなされ 青木まさ子
鶯や雨やはらかに平林寺 山田絹子
帝国ホテルの椅子に沈んで二月 若宮和代
ペン先を走らせてゐる春の詩(うた)   松下千代

三月の東京中央支部の例会で私が特選に採った作品。私以外は誰も採らなかった。句会の席上では、あまり目立つことのない作品ではある。確かに何の変哲も、際立った技巧も見られない。しかし、少なくとも作者である千代にとっては、充分に納得がゆき、愛着がある作品。あとは、選者の共感が得られるかどうかにかかっている。結果として、私だけが千代の作品を特選に採ったというケースは、ままあるのだ。次の作品がそれを証明している。

秋高し積木の家の建ちにけり   『河』十一月号
ビー玉の中に春の日揺れてをり   『河』四月号

二句とも、感覚的な一行詩である。この二作品に比べると、あまりにも日常的で平明な句意である。にもかかわらず、私の心を捕らえるのは何故だろう。千代の走らせるペン先に春の詩(うた)が出現する。長い冬が終ったという季節的な喜びは、死から生への転換をも意味している。このような、まるで子供のような無邪気さは、童謡詩の世界である。この一行詩の背景には春を象徴するパステルカラーの水彩画と、おたまじゃくしの音譜が画面いっぱいに踊っている。何か懐しく癒されるような一行詩。

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花冷の舌で虫歯を探しけり   山口奉子

奉子の「※花冷」の句を眺めていたら、突然、橋間石の次の句を思い浮かべた。

耳垢(みみあか)も目刺(めざし)のわたも花明り

間石の作品は、みみっちい景物を二つ並べて「花明り」という「晴はれ」の世界を演出してみせた。

私はさらに、斎藤茂吉の次の一首を記憶の抽斗(ひきだし)から取り出した。

むしばみてわが歯なやみし日ごろより
日に日(け)に秋は深くなりつも

茂吉の独壇場とも言うべきこの大らかなユーモア。しかも日常の些事(さじ)に深い感情を託した私の好きな作品。

奉子の作品は、橋間石の「花明り」に近い。虫歯を舌で探すという行為自体、私にもあるし、読者にもあろう。しかし、「花冷」という季語をもってくるあたりが、山口奉子の世界であり、個性なのだ。思わず作者の風貌を彷彿(ほうふつ)させる作品。

※花冷(花の冷え)…桜の花の咲くころ春らしい暖かさのあと、急に冷え込んだりする現象をいう季語。ときには冷たい雨、雪にもなり、花の名所で、花冷えはよく知られる

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鳥雲に入りて遊具の赤と青   半谷洋子

秋に渡って来た鳥は、春、シベリアなどの北方に帰っていく。そんな鳥の群れがはるかな雲のなかに消えていくことを季語としたわけだが、例句として、次のような作品がある。

鳥雲に入るおほかたは常の景   原 裕

洋子の作品は、鳥が帰ってゆく雲の下で、子供たちが赤や青の玩具で遊んでいる景だが、まるで赤や青の遊具が浮遊して春の雲の中に溶け入るようなイメージを読者に抱(いだ)かせる。一句全体が視野に飛び込んでくる立ち姿がよい。しかも色彩感溢れるファンタスティックな一行詩。

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わたくしの生まれるまへの春夕焼   石田美保子

同自作に、
魚体から魚体出てくる朧かな
がある。どちらも甲乙つけがたい秀句だが、表題である「生まれるまへの」を採りあげる。

上五は「我」でも「吾」でもなく「わたくし」。現代の川柳には良く使われる表現だが、俳句は一人称の文芸という前提に立って省略される。しかし、この句の場合、「わたくし」があった方が良い。何故なら下五の「春夕焼」の季語を導びき出すために、上五中七があるからだ。この句も、松下千代の「春の詩(うた)」と同じく、童謡詩の世界だが、千代の句ほど無邪気ではない。童謡詩的な表現は「春夕焼」のために、充分に計算され尽した作品世界だからである。しかし、少しも技巧を感じさせないのは、作者の力量である。技巧を読者に感じさせた時はそれは技巧とは言わない。稚拙なだけだ。今、俳壇は稚拙な技術の優劣だけを競う世界に堕している。

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涅槃会(ねはんえ)のしづかに浮きし貝の泡   滝平いわみ

昨年『河』に発表された滝平いわみの世界を眺めてみよう。

をみなにもうろこのありて花ざくろ   『河』八月号
常連となりて椅子引く夜の秋   『河』九月号

「涅槃会」とは、陰暦二月十五日の釈迦入滅の日。例句として
涅槃会の水に穴あく鯉の口   三橋敏雄
があり、数多い「涅槃会」の例句の中でも、いわみ作品は、右の句の系列に属する。あさり等の貝類に砂を吐かせる為の水桶に沈めて置くと、確かに泡が浮かんでくる。泡は貝にとって生きている証だ。勿論、涅槃は死の世界。涅槃の日に水に沈めた貝がしづかに息をしている光景。「夜の秋」の句と同様のしみじみとした一行詩。正に秀吟である。

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おぼろ夜や猫あをあをと発光す   淵脇 護

同時作に、
酒断つて日の暮れぎはの鴨のこえ
母の日の母におむつをすすめをり

があり、特に「母の日」の句に感銘したが、作品の表題である「おぼろ夜」を採りあげる。

淵脇護のこの句を読む前に、未発表だが次のような作品が私に出来ていた。

春の修羅その生きざまが発光す

作品としては無様(ぶざま)だし、露(あらわ)だが、「発光す」という下五の表現は私らしくて気に入っていた。しかし淵脇護の方が下五の「発光す」もなめらかに着地し、中七の「猫あをあをと」という描写が素晴らしい。上五の「おぼろ夜」の季語の設定もそう悪くない。中七下五に対するある種の説得力がある。全体として一句を眺めると、感性の光る一行詩。

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四月馬鹿患者の放屁(ほうひ)聞く夜かな   内田日出子

表題の「入院患者」から解(わか)るように、親の入院に付添っての連作。同時作の次の作品二句も良い。

病む親の髪梳(す)かしゐるお正月
病窓の春灯豊かに電車過ぐ

今月号の『河』全体の作品の中で、「四月馬鹿」は、圧倒的に魅力のある一行詩。「放屁」という俗な言葉を使いながら、作者の「いのち」を乗せた「魂の一行詩」としての代表句。目の覚めるような秀吟。「四月馬鹿」の数々の例句を遥かに凌いでいる。

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竜天に艀(はしけ)の浮かぶ隅田川   丸亀敏邦

二月に代官山のレストラン「シンポジオン」で行われた「はいとり紙」句会の兼題句。「※竜天に登る」とは、春の精気に乗じて竜が昇天するという俗信から来た季語。俳人の好む題だが名句はない。例句としては、
竜天に登ると見えて沖暗し   伊藤松宇
竜天に昇りしあとの田螺(たにし)かな   内田百

以上の二句は、数多くの例句の中でもかなりましな方だが、驚くには当らない。広瀬恵美子との比較ともなるので、両方をまとめて選評する。

※竜天に登る…竜は中国で神聖視された想像上の動物で、日本では「たつ」。春分に天に昇ったと信じられた

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兜煮(かぶとに)の目玉をつつき竜天に   広瀬恵美子

『河』四月号では、彼女の次の句を激賞した。

※鰤起(ぶりおこ)し吸ひもの椀に花麩(はなふ)かな

「鰤起し」の句には及ばないが、兜煮の目玉をつついていると竜が天に登ったという発想が面白く、ユーモアのある一行詩として丸亀と共に特選に採った。当日の私の句は
竜天に登る日暮の地下の街
竜天に登り駅には※渡(わた)り漁夫(ぎょふ)

両句とも辺見じゅんの特選に洩れたが、過日、二月の東京例会、「しゃん句会」で佐川広治編集長の激賞を受けた自信作である。丸亀敏邦の作品は、私の自信作とも遜色のない佳吟。竜が天に登っていく時、地の隅田川には艀が浮かんでいるという景だが、単純にして明快な構図となっている。歳時記に記載されて当然の作品。どこか久保田万太郎や水原秋櫻子と共通する懐しい世界。

※夕東風(ゆうこち)や海の船ゐる隅田川   水原秋櫻子

※鰤起こし…12月、1月北陸で鰤漁の最盛期に鳴る雷のこと。冬の季語
※渡り漁夫…鰊の漁期、北海道に渡る漁夫のことをこう呼ぶ。春の季語
※東風…寒気がゆるむ、東からの春の風

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立春の大きな卵割つてをり   福原悠貴

同時作に、
酒を売る店に灯の入る木の芽和
二ン月の空に丸描くただそれだけ

「立春」の句は、「はいとり紙」句会で、「木の芽和へ」と「二ン月」は、「しゃん句会」の兼題として特選に採った作品。「木の芽和へ」の句は、かつて鈴木真砂女の「卯波」で句会を開いていたが、その「卯波(うなみ)」を連想させる単純にして明快な佳吟。「二ン月の空」は正に一行詩としての世界。「立春の卵」の句は、両方の長所を合わせた佳吟。「大きな卵を割っている」という日常の景がそのまま一行の詩となって成功した。「魂の一行詩」とはこうした当り前の日常の中に詩を発見する行為であることを、読者は銘記しなければならない。

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売られたることを知らずに山笑ふ   小川江実

同時作に、
まだ生きるつもりの苗木植えにけり

東京中央支部の句会で両句とも私の特選となった。八十四歳の作者が「まだ生きるつもりの苗木」を植えていることが可笑しくヒューマンな作品。「山笑ふ」の句は、私と共に佐川編集長も特選に採り、また多くの出席者からも評価された作品。人間が自然を相手に売買の対象とするのは、神の視点からどう映るのだろうか。興味のあるテーマだが、江実作品は、風刺の効いたユーモアのある一行詩。「山笑ふ」とは、春の山のこと。例句も多い。

山笑ひ大きな月をあげにけり   内藤双柿庵
神天降(あも)り大いに山の笑ふなり   角川春樹

江実の作品は、少なくとも私や佐川と同等であろう。

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春の雪淋しき肉となりし舌   北村峰子

峰子は秋山巳之流と同様の癌患者。「淋しき肉となりし舌」の措辞(そじ)が切ない。祭のような春の雪は溶け易い。だから儚(はかな)い。人間の「いのち」もまた同様。「晴(はれ)」と「褻(け)」を描いた秀れた一行詩。作者を私は『河』の当月集作家に推薦したのだが、本年度の『河』賞の受賞を目指したいと手紙で断ってきた。それが生きる証だというのだ。私の評価を得て『河』賞を獲得するのが夢だという。ぎりぎりの生命を賭けた俳戦を私に毎月向けてくる。しかし、作品は作品でしかない。現在の『河』同人には、秀れた一行詩人が目白押しである。『河』賞が困難という理由で『河』を退会した愚か者が何人もいる。峰子のライバルには、春川暖慕、滝口美智子、鎌田正男、長谷川眞理子、中まり子、田中風木、高田自然という実力者が犇(ひし)めいている。そのことが『河』の俳句革新の底流となっているのだ。だから彼女の魂をゆさぶる一行詩を私は待っている。

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生けるもの茹(ゆ)でるもの選(よ)る花菜かな   蛭田千尋

同時作に、
荻窪や照子のやうな春の鳥
がある。彼女は母・照子の愛した荻窪の寿司屋の女将さん。それが千尋の本業。夫の豊は鮨商。『河』の今月号で、彼は次の作品を出句している。

宿り木のあを空の青山笑ふ
啓蟄(けいちつ)や雲水紅をさしてをり
人の世のうらおもて見てさよりさく
娘まだ嫁にもやらず雛納め

上手いとは言えないが、心暖まる作品が並ぶ。俳句とは、こう言う句作りでいいのだ。さて、千尋の作品は、鮨商の女将さんという日常を基盤に置いて生み出されている。観賞する為の菜の花と食としての菜の花を選(よ)りわけている、ただそれだけのこと。だが、たったそれだけの日常の中にこそ、「いのち」の、「たましひ」の一行詩は潜んでいるのだ。好感のもてる一行詩として、ここに記した。

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茎立(くくだち)やたしかにあった昨日といふ日   木崎幸子

茎立とは三月から四月ごろ、大根、かぶなどの根菜類が長けて、薹(とう)が立ち蕾をつけること。例句としては、
蕪(かぶ)一つ畝(うね)にころげて茎立てる   西山白雲
茎立やきのふの雨の朝ぼらけ   阿波野青畝
茎立や当麻の塔に日が当り   斎藤夏風
茎立やきのふは遠しをとといも   黒田杏子

みるみる薹が立つという光景が、例句でも見られるように時間意識を強く感じさせる。木崎幸子も又、茎立に不確かな時間の概念を抱かせたらしい。私たちは一日を二十四時間に分け、過去、現在、未来と棒のように一直線に捕らえているが、これは先入観ではないのか? 俳句が永遠の今を言い止める文芸であることは以前にも述べた。時間の概念の中で、ただ一つ正しい認識は「今の今」という一瞬である。神道ではこの認識を「中今(なかいま)」と言い、これ以外は不確かな存在としている。幸子の作品は、その時間意識の不確かさを一行の詩に言い止めた。「茎立」の季語も適切で、下五の字余りも詩としての必然性がある。

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待春(たいしゅん)のコップにパセリの森ふやす   中野彰一

パセリというと、誰もが思い浮かべるが鷹羽狩行の次の一句。

摩天楼より新緑がパセリほど

摩天楼から眺めた新緑がパセリほどの大きさで並んでいる光景。いわば写実の句だが、「パセリほど」の「ほど」の措辞が良い。中野彰一の句の上五「待春」は、一年の半分を雪に閉ざされている北海道在住の作者の切実な思いが季語として使われている。そして、中七下五の「コップにパセリの森ふやす」の措辞がなんとも言えない瑞瑞(みずみず)しさだ。色彩感の「みどり」が外の雪景色と際立っている。佳吟。

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穴を出る蟇(ひき)よ憲法第九條   木本ひでよ

木本ひでよは、私が『河』の新人会を発足させた時からの古いメンバー。戦後六十一年、憲法第九条とは何なのか? 私の中にも、未だ結論の出ない問題。現在、世の中は確実に右傾化の方向にある。穴を出る※蟇はこの世相をどう眺めているのか、という風刺の効いた一行詩。

日本に米軍がゐる暑さかな   春樹

※蟇…ひきがえる。体長12cmの大形蛙。昼は草叢、床下に隠れ、夕方にのそのそ、と。冬眠後5月に出る。動作など鈍くイボがあり気味が悪いが、どことなく愛嬌がある

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乗るはずのバスが出て行く枇杷(びわ)の花   三田村伸子

同時作に、
鳴きたうて伸ばし切つたる亀の首

二月の『河』東京例会で二句とも私が特選に採った。「亀鳴く」の方は、席上でも圧倒的に点数が入ったが、佐川広治編集長の特選は「枇杷の花」のみ。作品としては、確かに「枇杷の花」の方に軍配が上がる。枇杷は十一月から十二月ごろに小さな白い花を咲かせるが、高みにひっそりとあることから見落とされがち。例句もイメージに添った作品が多い。

また少し耳遠くなり枇杷の花   西山 誠
枇杷の花大やうにして淋しけれ   高浜虚子
花枇杷や一日暗き庭の隅   岡田耿陽
故郷に墓のみ待てり枇杷の花   福田蓼汀

こうして例句を抽出(ちゅうしゅつ)しているだけで、私の方が暗くなってしまった。三田村伸子の作品の視点も例句と同じ。「乗るはずのバスが出て行く」とは、本人の感慨。というより、作者以外は想像という事になる。だがこの思いは、万人共通なはずである。そして下五の「枇杷の花」が作者の現在地。「永遠の今」を作者なりに言い止めた、そして「いのち」を乗せた一行詩。数々の例句よりも遥かに新鮮な一行詩の世界である。

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美しき数式のあり蝌蚪(かと)の国   西川輝美

同時作の、
芽柳やひと駅早く降りるバス
もなかなか良い。「蝌蚪の国」とは、蛙の幼生のお玉杓子(たまじゃくし)の世界を、大仰に表現した季語。例句として、
川底に蝌蚪の大国ありにけり   村上鬼城
蝌蚪の国ありて牡丹の別の国   森 澄雄

『河』四月号で採りあげた春木太郎の、√2(ルート2)を開いて遊ぶ春隣の批評で、小川洋子著の『博士の愛した数式』の一文を掲載したが、輝美の句もその小説を念頭に置いて作った一行詩。お玉杓子の世界に「美しき数式」があるという発見は、年を経ても小説を離れて残ってゆく。私の代表句となっている次の句も、澤地久枝の同名ノンフィクションから来ているのだ。

火はわが胸中にあり寒椿   春樹

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目借時(めかりどき)昼の男の通りけり   長谷川眞理子

同時作に、
春は名のみの赤い紐青い紐
があるが、「目借時」の句の方が遥かに良い。「目借時」とは、晩春のころの暖かさにしきりに睡気(ねむけ)を催すが、それは蛙に目を借りられるためだという俗信から来ている。従って例句も滑稽みを帯びている。

目借時ゆふべのままの紙とペン   井上 雪
水飲みてすこしさびしき目借時   能村登四郎
煙草吸ふや夜のやはらかき目借時   森 澄雄
目借時蒟蒻(こんにゃく)ちぎる爪をたて   石川桂郎

長谷川眞理子は、前にも書いたが「盆栽俳句」から距離を置いた一行詩人である。「赤い紐青い紐」もきさらぎの色を象徴した作品だが、「目借時」の句も、具象的に「昼の男が通りけり」と表現しながら、抽象的な世界。『河』二月号の、
写楽絵や皮手袋が濡れてゐる   長谷川眞理子
と同様に油絵で「昼の男」が描かれている。しかし、この「昼の男」はどこが現在地となっているのだろう。「昼の男」に影はあるのだろうか? 漠たる不安を孕(はら)んだ奇妙な写生画。写生でありながら、抽象的な危機感を読者に抱かせる不思議な一行詩。私も眞理子に対抗して今、一句出来た。

目借時みどりの鬼が繭(まゆ)にゐる

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山腹に午報(ごほう)の返る雪解(ゆきげ)かな   藤森和子

三月の東京中央支部の句会で投句された作品。句意は明瞭で、雪解けになった山腹の村に午報が谺(こだま)している光景。この句、日本の風景でありながら、スイスを舞台にした写生画に思えてくる。午報を鳴らすのは、小さな村の教会だ。遠くアルプスには残雪がきらめいている。何とも懐しく癒される景だ。批評を書いている内に、私にも一句出来た。

あをあをと地平の燃ゆる雪解(ゆきげ)かな

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あたたかき雨の匂ひの捨蚕(すてご)かな   神戸恵子

この句も東京中央支部での投句。捨蚕とは、病気のために捨てられた蚕。春の季語。例句としては、
つらなりて流れ来たりし捨蚕かな   野村泊同
吹く風に顔を上げたる捨蚕かな   倉田紘文
道の辺に捨蚕の白さ信濃しなの去る   橋本多佳子

恵子の「捨蚕」も長野県の道の辺の景。多佳子の句は捨蚕の無残さに目を止めたが、恵子の句は暖い雨の匂いが捨蚕を包んでいる。私は恵子の方を採る。「捨蚕」という季語自体が「暗」である以上、暖い雨によって「明」に転換させた方が作品として上出来だからだ。

梁框(はりかまち)死者と隔てて蚕(こ)が匂ふ   春樹

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梅東風(うめごち)や羊羹(ようかん)厚くもてなされ   青木まさ子

この句も二日の東京例会で出句された。単に羊羹がお茶受けとして出されたのではなく、郊外の梅が咲く真昼の縁側の景までが、「厚くもてなされ」で浮かびあがってくる。作者のしなやかな感性が写実を通して伝ってくる佳吟。

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鶯や雨やはらかに平林寺   山田絹子

この句も東京中央支部の例会で私が特選に採った作品。詞書(ことばがき)に、埼玉県新座市野火止(のびどめ)の禅寺とあったが、これは不用。せっかくのイメージが限定されてしまうからだ。平林寺という固有名詞がこの句を支えている。それが上五の季語の「鶯」にも、中七の「雨やはらかく」にも通っていくからだ。この句が古典と響き合うのも、固有名詞の働きによる。句会では見過されがちだが、堂々たる一句である

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帝国ホテルの椅子に沈んで二月   若宮和代

同時作の、
逃げ水の逃げきつてゐる赤い傘
も良い。この句も長谷川眞理子と同様の絵画的な一行詩だが、帝国ホテルの椅子の句は、小説の世界。椅子に坐っているのは、本人というより、初老の男。それも銀髪の外国人が相応しい。「春愁」という季語を、この男はまとっている。帝国ホテルという固有名詞が抜群の働きをしている。現在の帝国ホテルではなく、天井に大きな扇風機が取りつけられている。服装もかなり時代がかっている。一種、タイムスリップした世界と言えばいいか。つまり、様々なイメージを膨らませる「映像の復元力」を持った一行詩。だから小説的な世界と言ったのだ。

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