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| 2006年3月号「月刊ランティエ。」掲載分 ※下に批評を掲載しています。 |
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白鳥の湖(うみ)の蒼さに染まりけり 佐川広治
市ヶ谷の自宅に届いた賀状に、俳句が記された三枚の中の一枚。美しい句だ。切れ字の「けり」も格調を高めている。代表的な抒情詩と言っていい。
冬晴の青空が一面の雪景色の上に垂れている。白鳥の湖も青空を映して冴えた蒼を湛えている。まるで自分の身体も湖の蒼さに染っていくかのようだ。青と白だけの世界が夢の一部のように眼前にある。佐川広治の美意識が生んだ佳吟。
私は今年年賀状の句を二つ詠んだ。一句は獄中の私から姉の辺見じゅんへの賀状のイメージであるが、もう一句は姉から弟である私のその時の体験を詠った実景。
はるかなる獄の海鼠(なまこ)の賀状かな
娑婆(しゃば)からの賀状に夕日こぼれをり
長い受刑の日々が、私の句境を一変させた。私の宣言する「魂の一行詩」も、過去の自分の作品と訣別(けつべつ)した所から生れて来た。それは魂の遍歴(へんれき)となり、現在に於ける私の原点を形造っている。 |
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雪霏々(ひひ)とひとり遊びの鳰(かいつぶり) 福島勲
福島勲氏の掲句の意は、文字通り雪が降りしきる湖の鳰(にお)が水に潜ったり、浮かんだりの動作を「ひとり遊び」をしていると捉えた感覚。鳰は、全国の湖沼や川のよどんだところに見られる水鳥だが、この句の場合、古名を鳰(にお)の湖(うみ)といった琵琶湖を指している。この句の眼目(がんもく)は「ひとり遊び」。ひとり遊びをしているのは、鳰そのものだが、同時にその光景を飽かずに見入っている作者自身でもある。かつて私が俳句の三原則として、最も重要視した「自己の投影」が一句の核をなしている。 |
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獅子舞や母の袂(たもと)に隠れゐし 新地玲
新地玲さんは二十六年前、分裂した俳誌『河』の復興のため全国各地に興した「角川春樹俳句教室」の古いメンバー。年賀状の中の最後の作品。「獅子舞」は、私が直接指導している「はいとり紙」句会の兼題(けんだい)だが、いざ作句しようとすると意外に手強い季語だ。例(ためし)に読者がこの季語に挑戦してみれば解る。今回、「はいとり紙」句会に私が提出するのは次の三句。
獅子頭真赤な口を開けにけり
獅子の笛夕日すとんと落ちにけり
獅子舞や七日の富士を見てをりぬ
新地玲の句は、獅子舞を見ている母子を詠った作品だが、「母の袂に隠れた」とだけ書いて子供を登場させず、文字通り子供を隠したところが手柄。 |
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義士の日の鏡の奥にキティちゃん 河合すえこ
新年おめでとうございます。
『男たちの大和』観賞させて戴きました。涙がとめどなく零(こぼ)れ、最後には館内に拍手が湧き上がり感動のいちにちでした。
河合すえこ
上の句は、『河』の東京中央支部の句会で私が秀逸に採った作品。「義士の日」は、十二月十四日。大石良雄ら赤穂四十七士が吉良上野介邸に討入りした日である。私の句では、
討入りの耳あたたかき日なりけり 『海鼠の日』
義士の日の雲の片側焼けてをり 『海鼠の日』
討ち入りの日や茹(ゆ)であがる蛸の足 (未発表)
十二月十四日の義士の日は、私の母・照子の誕生日にあたり、『海鼠の日』の二句は刑務所の中から、母を思っての句。
河合すえこの作品は、義士の日の鏡の奥にキティ人形が映っている光景を詠んだユーモア句。義士の日とキティの取り合わせに、私は句会で思わず笑ってしまった。「魂の一行詩」は「笑い」を重要視しているので、敢えてこの句を採り上げた。 |
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枯蓮(かれはす)の中敗荷(やれはす)の匂ひけり 小島健
『河』二月号の当月集作品の中で、私が最も感銘した一句。
「敗荷(やれはす)」は、秋の季語で、青々と茂っていた蓮(はす)の葉が、秋風が吹きはじめるとしだいに破れて風に鳴り、寂寞(じゃくまく)とした姿になること。一方、「枯蓮(かれはす)」は冬の季語で、美しく咲いていた蓮が凩(こがらし)が吹き霜が降りるころに枯れはじめて無残な姿になること。つまり、枯色となった蓮の中に、まだ青を保った破れた蓮が匂いを放っているという光景。自然は俳句歳時記の通りに動いている訳ではない。冬の蕭条(じょうじょう)とした枯色の風景の中に、破れながらも蓮の青が目に染み、かすかながらも草の匂いが作者に届き、感動させた一瞬を詠んだ作品。「永遠の今」を言い止めた魂の一行詩。作者の息使いが聴こえてくる。「自己の投影」が見事に結実した佳品である。 |
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街娼の辻に聖樹の明滅す 渡辺二三雄
「バンコク」と題した連作の一句なので、この街娼の辻がバンコクの街角であることを指定している。クリスマスに関する句は、概して美意識か楽しさが前面に出て来るが、この句は全く異質な世界。うら侘しいアジアの街角の、うら侘しい娼婦。そこに「晴」の象徴であるクリスマス・ツリーが明滅し、作者の心をいっそう陰鬱なものにさせている。二三雄作品も「自己の投影」がにじみ出ている一行詩。私がクリスマスを詠んだ次の作品とも通底している。
白骨の街の夜景やクリスマス (未発表) |
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雪降るやガラスを隔て魚の腹 山口奉子
昨年度の『河』賞を大森健司と共に受賞した山口奉子の作品群は、いわゆる「俳句的な俳句」ではなく、一行詩の世界。
挽歌低く蛾(が)のしんしんと赫(あか)き目よ
長き夜の東京駅で待ち合はす
鳴くための蚯蚓(みみず)の全長ちぢみけり
絶景の会長室のいぼむしり
眷族(けんぞく)をときどき殺し大花野
(『河』十一〜一月号)
読者はこれら一連の作品を眺めて、山口奉子が俳人ではなく詩人であることに同意されるであろう。特に「長き夜」の句は、材料を並べたてることなく、それでいて深い句境に感銘を覚える。詩歌の世界で言う「無内容」の良さが成功した佳品。しかし、このような作品が絶えず生まれる訳ではない。
「雪降る」の句は、ガラスを隔ててむざと裂かれた魚の腹を抽出(ちゅうしゅつ)したことによって成功を収めた。裂かれた腹の魚の種類は、具体的に触れていないが、小魚ではなく大魚。外は音もなく雪が降りそそいでいる。街の魚屋なのか、築地のような魚河岸なのか定かではないが、私のイメージは街の魚屋の師走の風景。その方がいっそう無残な映像が浮かび上がってくるからだ。新年の予祝としての雪が効果をあげている。山口奉子の選評を書いていると、彼女の詩に触発されて一句が浮かび上がった。
降る雪や人魚の腹の裂かれゐる |
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冬至満月なにして過ぎし昨日かな 大森理恵
現代にあっては、昨日と言わず今日さえも遠く感ずることがある。作者はまず「なにして過ぎし昨日かな」の中七・下五が浮かび上がり、しばらく上五を考えた末に、ようやく「冬至満月」の季語に思い至ったのではあるまいか。それほど「中七・下五」が一気呵成のスピード感があり、一句全体が視野に飛び込んでくるからだ。そして「冬至満月」の季語は、「雪満月」でも「冬満月」でもなく、食べ物でも植物でも行事でもなく、作者の思考の果てに行きついた結論だったのではないか。それほど「冬至満月」の季語が、実に良く働いている。読者は「冬至満月」以外の季語を思い浮かべたらいい。結果は、理恵のこの一行詩に軍配を上げるだろう。 |
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冬銀河肉脱ぎ捨てて泳ぐべし 鎌田俊
銀座五丁目のBAR「しゃんく」での第一回の句会で私が特選に採った作品。冬銀河の中を、肉体を捨てて、魂が泳いで行く光景。肉体をもって冬銀河を泳ぐことは不可能だが、おのが魂はどんな空間をも泳ぎ渡ることが出来る。私の句では、
たましひに遅れていのち泳ぎけり 『JAPAN』
光年の銀河に蝶の紛(まぎ)れゆく (未発表)
鎌田俊の「冬銀河」の句は、正に「魂の一行詩」である。 |
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極月(ごくげつ)のどこを押しても開かずの間 北村峰子
同時作に、
逢ひたくてあひたくて秋の鮫になる
秋の鮫になった峰子が、極月の開かずの間を押しているような暗い印象が、この句の背景にある。開かずの間の中にあるのは、「希望」なのか「絶望」なのか。しかし、峰子は強い意志を持って開かずの間を押し続ける。例え「どこを押しても」開かない扉であったとしても、その行為は無為ではない。おのが気力を振いたたせる生命力が、彼女に見えるからである。
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つるし柿粉吹(こふ)く夜祭来たりけり 佐藤佐澄子
秩父(ちちぶ)の夜祭は十二月二、三日、埼玉県秩父市の秩父神社で行われる曳山祭(ひきやままつり)。三百年の古い歴史を持つ。私の父・源義も秩父夜祭の連作を発表しているが、うち一句あげると、
夜祭や炭火に猛(た)ける捨煙草
私の句では、
火祭の秩父を囲む霜のこゑ
歳時記の代表句としては、
桑枯れて秩父夜祭来たりけり 岡田水雲
代表句の岡田水雲が「桑枯れて」と持って来たのは、秩父が養蚕(ようさん)の地であることと深く結びついている。それに対して、佐澄子は「つるし柿」が粉を吹きだしたことに目をつけた。それがこの句の眼目である。正に季語の本意本情を言い止めた佳吟。 |
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九十の夫(つま)に手編の冬帽子 小川江実
作者は八十四歳。九十歳の夫に手編みの冬帽子をプレゼント。俳句が人生を豊かにする実例と言っていい。正に俳句極楽。
このような作品を眺めると、読者まで幸福感に包まれる。俳句という詩形の大きさ、楽しさを示した好感の持てる作品。俳句は理屈ではない。
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日本が生きねばならぬ中にゐる 福原悠貴
私が直接指導している「はいとり紙」句会の席上で、姉の辺見じゅんと共に特選に採った作品。無季であるが、「魂の一行詩」運動として、この詩を採り上げない訳にはいかない。
昨年は日本にとって戦後六十年の節目であった。私の製作した映画『男たちの大和/YAMATO』が全国公開され、私の句集『JAPAN』が出版された。日本が再生するかどうかという時期に、悠貴の作品が発表された。日本が活力を取り戻して再生しなければならないように、作者である私(悠貴)も生きねばならない、という意。私の一行詩の中にも、数多くの無季の句がある。季語に甘える訳にはいかないからだ。どの季語を持って来ても、自分の「生」からかけ離れてゆくからだ。例を上げると、
人間の生くる限りは流さるる
放蕩(ほうとう)やわれに蹼(みずかき)ある夕べ
日曜日積木の家のすぐ崩れ
試写室の椅子に大和の兵がゐる |
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室(むろ)咲きの撩乱(りょうらん)三島の忌なりけり こじまあつこ
「室咲き」は、春に咲く草木の花を温室やビニールハウスなどで早く咲かせたものをいう。冬の季語である。例句として、
室咲きの花のいとしく美しく 久保田万太郎
室咲に苺の花もあるあはれ 水原秋櫻子
こじまあつこの句は、室咲きの花が咲き乱れている姿が、三島由紀夫を連想し、さらに自裁(じさい)した忌日を重ね合わせた作品。言わば三島由紀夫の自画像を一行詩に仕立て上げた。
どういう訳か、私も今年になって三島の忌を詠うことが多くなった。映画『春の雪』を観たが、これには感心しなかったが……。
今月の『河』作品で一番多かった季語は、忌日である。「一葉忌」「レノン忌」「三島忌」だった。「レノン忌」を初めて俳句に登場させたのは、私の句集『信長の首』である。
私が古代船「野性号三世」の帆を張って、伊豆の下田港からチリのプンタレナス港までの環太平洋五万キロの航海を終えた昭和五十五年十二月八日、ニューヨークでジョン・レノンが暗殺された。一年後の一周忌に初めてジョン・レノンの忌日を詠んだ。
レノン忌の闇深くなる神楽殿
第二句集『信長の首』は、俳人協会新人賞、文部大臣新人賞をダブル受賞したこともあって、若手の俳人にもよく読まれ、その後、若手俳人が好んで「レノン忌」を詠うようになったが、季語としてはまだ定着していない。今月号の『河』の作品では、
干し蛸に夕日の透けてレノンの忌 柴田和子
がある。一方、三島忌の方は、
天狼の目玉がぽろり憂国忌 石山季太郎
外套のうちがはにをり憂国忌 滝口美智子
瀧壺はわたつみの中憂国忌 春川暖慕
三島忌の例句はまだ少ないが、こじまあつこの作品は三島の姿が彷彿(ほうふつ)し、『河』作品の中でも一歩、抽(ぬき)んでている。私の作品を上げると、
鮫捌(さば)く三島由紀夫の日なりけり (未発表)
三島忌の帽子の中の虚空かな (未発表)
いま、突然レノン忌の句がひらめいた。
レノン忌の冬の夜空に発砲す |
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襟巻(えりまき)をして鷹匠(たかじょう)と少女来る 長谷川真理子
「鷹匠」は、鷹の訓練をし、鷹狩を行う役人の職名。冬の季語である。真理子の句は、襟巻をした鷹匠と少女を並べているだけだが、少女を登場させたことによって、その取り合わせの妙に感心してしまった。襟巻をしている位だから鷹匠は老人と推測出来るが、それなら少女は孫か? それとも恋人か? 少女が鷹匠の恋人であったと仮定すると、ドラマツゥルギーが発生する。俳句の鑑賞の基本として二通りの解釈が出来る場合は、良い方に判断を下すべきなのだ。私は真理子の作品に登場する鷹匠も粋な漢(おとこ)と考えたい。
少女も長い髪の小悪魔的な女性と考えると、ますます想像が膨らんで楽しくなってくる。鷹匠の句としても、少女とやって来ることによって新鮮なものとなった。 |
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新宿の冬蓑虫となり歩く 山口早苗
同時作に、
冬あたたか頭上のえいの過ぐるとき
「冬あたたか」の句も実に面白い。頭上にが通り過ぎたので、冬が急に暖く感じられた、という句意。勿論、現実の上で海にいるえいが空を泳ぐことはないが、まるでシャガールの絵のように上空を魚が飛ぶという発想が面白い。しかし、それだけではいくらでも類型(るいけい)があるが、えいを登場させたことでこの句は成功。
一方、「冬蓑虫」の句は、まるで冬の蓑虫のように何枚も重ね着をした自分を自嘲(じちょう)した、と言うより滑稽視(こっけいし)した、それも「新宿」という大都会を歩いている、というユーモア句。作者は久し振りに上京したのだろうか、次の同時作にも感心した。
冬の雲魚籃坂(ぎょらんざか)にて迷ひけり |
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冬がくる改札口を抜けにけり 若宮和代
同時作の、
着ぶくれて返る言葉のがらんどう
冬灯(ふゆともし)深く座りてゐたりけり
の二句も良い。若宮和代は昨年度の角川春樹新人賞の受賞作家。作品『氷菓子』の中で、次の二句に感銘した。
ジャズの夜や青いコートの日曜日
獏(ばく)に夢返してもらひ春の昼
さて、掲句に話を戻すと、「冬がくる」は銀座の「しゃん句会」で私だけが特選に採った作品。山口奉子の、
長き夜の東京駅で待ち合はす 『河』十二月号
と同じ評価を「冬がくる」の作品に下している。「長き夜」の句と同様に、この句は材料を並べたてることなく、歌人・釈迢空の言う詩歌の「無内容」の良さなのだ。冬がくる改札口を抜けたという、たったこれだけのことなのに、明らかに映像が見え、作者の思いも充分伝ってくる。このような句がもっと選者に理解されないならば、和代は迷い、孤独になってしまう。
「冬灯(ふゆともし)」の句も同様だが、こちらの方は東京中央支部でも何人かが選句したので救われる。「深く座りて」と言ったことで、ある種の共感が得られたが、逆に言葉が意味を持ち過ぎて、「冬がくる」のさりげなさに及ばない。私の句を例にあげると、
ゆく秋や靴屋に靴を履(は)きながら
熱飯(あつめし)に卵を割って冬に入る
くろがねの寒九の水を飲みにけり
なんにもない光の中の冬の川
(いずれも未発表)
それこそ、なんにもない、ただ一本の冬の川が光って流れている。ただそれだけ。しかし詩の真実とは、そこにこそあるのだ。素材やドラマトゥルギーだけが詩なのではない。単純にして、作者の日常的な息吹に詩の真実がひそんでいるのだ。選者も読者もそのことを留意して欲しい。名句とは、誰でも理解できる、そして共感出来る作品なのである。キャンバスに描かれた、ただ一本の線だけで美しい作品もあるのだ。 |
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回らないおすしを食べにクリスマス 春木太郎
同時作に、
十二月八日のうしろめたさかな
冬ざれの北緯四十三度かな
二つとも面白いが、せめてものクリスマスの奢(おご)りとして、いつもの回転寿司ではない寿司を食べに行った、というこの句には及ばない。こんな暖い、そしてユーモアのあるクリスマスの句を読んだことがない。この句境の柔軟さ、自由さはどうだ。正しく現代の「軽み」そのものではないか。私はこの「クリスマス」の句に、すっかり脱帽した。 |
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寒燈下猫が腓(こむら)を吸ひにくる 堀本裕樹
昨年度の角川春樹賞受賞作家。その時の「火の鳥」から抽出すると、
暴力の真っただ中の草いきれ
ふるさとよ空蝉(うつせみ)握りつぶしたる
秋蝉の尿(しと)きらきらと健次の忌
作家中上健次と同郷の和歌山県出身。中上健次の愛読者であるばかりでなく、幅広い読書家でもある。「火の鳥」一連の作品が、佐川広治の言葉を借りれば、「従来の写生俳句から一歩踏み出そうとする意欲」を持っている。「寒燈下」の句は、釈迢空の「独座深夜の幽情」から、さらに踏み込んだ幻想的な世界を詠った一行詩。歌人の福島泰樹ばかりか釈迢空まで読み込んでいることに驚いた。「猫が腓を吸ひにくる」というフレーズが素晴らしい。 |
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風花やスイッチ押さる電気椅子 大多和伴彦
句意は明瞭(めいりょう)。いま、電気椅子に座っている死刑囚にスイッチが押された瞬間、外は明るい風花が舞っている、という光景。「風花」の季語を持ってきたことによって一行詩が成立した。作者は「角川春樹俳句教室」の古いメンバーで、一時俳句から遠去かっていたが再び『河』に復帰した著名な文筆家。私が『河』作品批評を始めて、初めて見せた作品。以前から注目していたが、ようやく私に向けて投句して来てくれたことを、私は素直に喜んでいる。 |
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夫(つま)の夢を断ちしはわれか鵙(もず)の贄(にえ) 朝賀みどり
「鵙の贄」とは、鵙が捕えた蛙・昆虫などの餌を木の枝先などに刺して貯えておくこと。秋の季語。
朝賀みどりの作品も東京中央支部の句会で私だけが特選に採った。みどりの「鵙の贄」は、実に見事な上五・中七の象徴として選択された季語だ。句意の説明は不要。「魂の一行詩」は、作者の「いのち」「こころ」「たましひ」を運ぶ器なのだ。俳句である以前に、一行の詩でなければならない。朝賀みどりのこの作品を目にした時、私の心は痛んだ。結婚は愛によって成立するが、一方でどちらかの妥協も必要とする。少年期の夢は、結婚、妻の出産、子育ての中で、自然消滅してゆく。それを運命として受け入れるのか、拒否するのか。受け入れた夫の運命の象徴としての「鵙の贄」だとすれば、あまりにも痛ましい。しかし、この句は、妻の嘆きの故に例句の数々を超える佳吟となって顕(た)ちあらわれてきたのだ。――絶唱。 |